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キリストの聖体を頂くたびに、イエスを、その優しさを感じていますか

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

キリストの聖体(C年)の説教=ルカ9・11b~17

2019年6月23日

幼児期のウソに寄り添うべき「親の心」から

「幼児期のウソ、成長の一面も」と語るのは、京都女子大学教授の瓜生淑子(うりう よしこ)さん(発達心理学)です。子どもがウソをついた時、しつけのためにと称して、厳しくしかることはあるでしょうが、一方で、幼児期に見られるウソは成長の証しと考えることもできます。(讀賣新聞大阪本社、2019年6月17日朝刊)

お漏らしをごまかそうとしたり、歯磨きをしたふりをしてみたり・・。教えられてもいないのに、子どもはいつごろからウソをつくのでしょうか。3~5歳児の保護者にアンケートをしますと、「言い訳」のようなウソは4歳前後からみられるようです。もう少し大きくなると、自分が責められるのを避けるための作り話や、自分の好みとは異なるプレゼントをくれた相手に対し、「これ、前から欲しかった」と気遣うお子さんもいるといいます。

こうした言動から、自分と他人との心づかいに気づいて判断・行動する知的能力が備わってきたことがうかがえます。これを心理学では「心の理論」の獲得と呼びます。そして、自我意識の発達につながるとも言えます。

子供を追い込まないよう余裕を持った対応を

幼児期のうちは、こうした変化、成長が見られるんだと余裕をもって受け止めましょう。この時期だからこそ、成長するポンイントがあるんだということだと思います。この時期を外すと二度と訪れない成長過程だと言えるでしょう。その上で、「ウソはよくない」「ウソをつくなんて悲しいなぁ」という気持ちを、目を合わせてしっかりと伝えておくことも大事だと思います。声掛けは最小限度の言葉にすること、決して、子どもを追い込むことのないようにしたいものです。

子育てに関わる周りの親、大人が、どのような志、心意気で子育てにあたっているのか、その中身が子どもに伝わっていきます。子どもの生涯の中で、一番大事な成長期であるこの時期は、子育てにあたる人の、目に見える姿プラス心意気が求められているのではないでしょうか。特に現代は、目まぐるしく変化していく周囲の環境を、しっかりと見定めることのできる視点、価値観が大事になってきます。

ものごとの進歩、発展、実りは、一足飛びになるものではないということはよくわかっています。やはり、その「時」が大事になってくるように思います。数々のノーベル賞にしましても、長年を費やしてたどり着いた成果です。賞をいただくために奮闘している人、学者はいないと思いますが、その努力が多くの方々に評価され、認められて「賞」にたどり着きます。それは、その実りを多方面から支えてくださった方々の力が、心意気が熟した「時」と重なるのです。

イエスのことばと行いはいつも時を得ている

きょうはご聖体の祝日です。イエスは、いつも「時」を見極めて行動しているように思えます。つまり、委細構わず、ガミガミと頭ごなしにしゃべったり、行動したりはしません。基本的には、弟子たち自身が、イエスの心に、意図していることに気づくまで、辛抱強く待つのです。どうしても気づかない時は、イエスは誘導なさるかのような語りかけを弟子たちにしています。弟子たちの中で変化が起きないと、本物の「イエスの弟子」ではありえないということでしょうか。だからこそ、その「時」を大事にしているように、わたしには見えるのです。

キリストの聖体:すべての人が食べて満腹し、パンの屑が12籠も残った

キリストの聖体(C年)の福音=ルカ9・11b~17 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

聖体はなぜ「渡される夜」制定されたのか?

ご聖体が制定されたのは、パウロによると「渡される夜」(1コリント11章23節)にとなっています。どうしてこの夜だったのでしょうか。イエスの意図したものは何だったのでしょう。

この「渡される夜」は、イエスを取り巻く多くの人びとの醜さ、ずるさ、駆け引き、責任転嫁等、人間の心の奥に潜む悪が噴出した夜だったのです。ユダ、ペトロを含む弟子たち、祭司や長老たち、ピラトも偽りの裁判を肯定します。イエスとかかわりのあるすべての人が、イエスを見捨てる時、夜だったのです。(マタイ26章20~35節、27章24節参照)

このような状況の中で、イエスはどうだったのでしょうか。これらのすべてをご存知だったのです。その結果、ご自分が孤独になってしまうことも。苦しみ喘ぐその口からは「もしできることなら、この杯をわたしから遠ざけてください」(マタイ26章39節)という祈りの言葉が発せられるのです。だからといって、この状態を回避されるのかと言えば、そうではなく、逆にそうした中で人々のために憎むこともなく、むしろ、赦しを願っているのです。(ルカ23章34節参照)

つまり、「渡される夜」とは、人間の悪がきわみに達した時であり、それらの悪を超えたイエスの愛と優しさが、頂点に達した時だったのです。

イエスの愛と優しさが全人類に行き渡るため

聖体の制定は、イエスがご自分の受難と復活を通して全人類に与え尽くされることを願ってのことです。だから、「渡される夜」だったのです。「わたしは代の終わりまで、いつもあなたがたともにいる」(マタイ28章20節)というイエスの使命が全うされていきます。そして、わたしたちの信仰センスも成長していきます。ご聖体をいただくたびに、・・。

人間の感性も、いろいろな時を経て育っていきます。時宜にかなった成長の時、瞬間を見落とすことなく、日常の一コマ一コマにおいて大事にしたいですね。それに、信仰の感性が加味されていきますと、申し分のない味付けです。また、かぐわしい香りを放ってくれるのでは、・・。

【6月23日】キリストの聖体(C年)の聖書はこちら

 

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