年間第24主日に関する【記事一覧】はこちら

年間第13主日:響き合う仲間づくりを!まずは自ら求め、目指して欲しい

この記事は約5分で読めます。

2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第13主日(C年)の説教=ルカ9・51~62

2019年6月30日

料理を通し、世界中で仲間づくりを…

「『熟成鮨』の魅力を海外に伝える」すし職人、木村康司(きむら こうじ)さん(47歳)の紹介記事が掲載されています。(讀賣新聞大阪本社、2019年6月24日朝刊)

1カ月前後熟成させたカンパチの握りを米国人が緊張気味に口に運ぶ。柔らかな身と硬めの鮨飯がほぐれた瞬間、笑顔に変わったそうです。ロサンゼルスのジャパン・ハウスで5月に開かれたすしイベントでの一こまです。「外国人の反応は日本人以上に正直に顔に出る。見ていて楽しい」といいます。

木村さんは、6年間の試行錯誤を経てたどり着いた「熟成鮨」を、昨年から欧米や東南アジアを回っては地元の人たちに伝えているのです。それも「食べる人の喜ぶ顔、驚く顔を見たいからだ」といいます。水分を管理しながら冷蔵庫で魚を寝かせます。酸化防止のため毎日深夜まで身を薄く削り、味を凝縮させていきます。魚によって熟成期間も変えるといいます。来年の東京五輪・パラリンピックに向け、海外では、いやが上にも日本への関心は高まるばかりです。木村さんは言います。「料理を通し、世界中で仲間作りをしていきたい」と。

嬉しい、悲しい心の動きは顔に現れる

人間は、顔が似ている人はいても、まったく同じ顔の人はいないでしょう。また、「顔」に関することわざ、慣用句はたくさんあります。たとえば、「相好を崩す」という表現があります。「相好」は顔つき、顔かたちの意ですが、喜んで思わずにこにこする、いかにも嬉しそうな様子を見せるという意味になります。

人間にとって、その人の決意、気持ちの動きなどが、願ってもいないのに、なぜか顔にあらわれてしまうことがあります。そのような経験はありませんでしょうか。「目は口程に物を言う」という表現もあり、「目は心の鏡」という言い方もあります。いずれも、人の心、気持ちが伝わっているさまを表現しているのでしょう。目は顔の一部ですから、当然のこと、顔全体の表情にも影響してきます。「浮かぬ顔」「涼しい顔」「澄ました顔」など、また、「喜びの顔」「嬉しい顔」「にこにこ顔」など、たくさんの「顔」に関する表現があります。

イエスはエルサレム行きで顔を固めた

聖書の中にも、「顔」が登場してきます。今日の福音の中で、「エルサレムに向かって旅立とうと決心された」という表現を直訳すれば、「エルサレムへ行くために顔を固めた」となるそうです。「顔を固める」という表現は、イエスの固い決意を表しています。どのような固い決意なのでしょう。

年間第13主日:鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない
年間第13主日(C年)の福音=ルカ9・51~62 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。

「天にあげられる時」が近づいたことへの決意です。それは神によって定められたイエスご自身の死の時です。おん父のみ旨だったのです。そして、それが、人々の救いに関係することでもあったのです。これらを避けて通ることはできなかったのでした。これを拒むことは、人類を闇の中に葬り去ることになってしまうからです。それだけはできなかったのです。これが、イエスの最も大切な仕事だったからです。だからこそ、固い決意をなさったのでしょう。その時が近づいていることを、イエス自身、ご存知だったのです。エルサレムが死の場所でした。

イエスが顔を固めた理由を黙想しよう

人間の常識からみますと、「死」、しかも処刑による「死」にどんな意味があるのでしょうか。これまでイエスは、人々に語り、病気を癒やし、奇跡をおこない、苦しみから解放し、たくさんの安らぎと勇気を人々に与えてきました。直接人々に交わり、生きる価値を、喜びを提供し、時の指導者たちを論駁してきました。そして、人々の心を元気づけ、希望を与えてきたのです。そうすることが人びとにとっては何よりの励まし、癒し、元気のもとになっていたはずです。そして、日々の生活の中で、人々もそのことを実感できていました。なんといっても、その方がより現実的でした。ありがたみを感じることができたのです。

ところが、イエスの道、信念はそうではありませんでした。人々と、弟子たちとの認識の違いから、より強固に「顔を固める」必要があったのでした。彼らは、力による決着を期待し、「天から火を降らせ、彼らを焼き払うように願いましょうか」とイエスに進言するくらいです。これも人間のエゴイズムでしょうね。イエスは明言します。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と。これはイエスご自身のその時の生き方、心境を語った言葉であるといえないでしょうか。

わたしたちの日常で、よく迷いの瞬間があります。その時「やろうといったん決めたのに、後戻りするのは、自分らしくない、カトリック者らしくない」という射祷として、自分の心情を神に告白する挑戦をしてみては・・。このような視点から、イエスの信念、道、心情に近づくことができるような気がします。それを求め続けている限りです。これが、わたしたちの「信仰生活」の始まりといえないでしょうか。

宣教の仲間づくりに向けた自分の顔は

人の内側に秘められた信念・心情は、いずれ、どこかに、何らかのかたちを取って表に出てきます。それに気づいたときに、親しみを感じたり、元気をいただいたり、時には、自分の生き方に影響する、いい意味でのショックを覚えたりするものです。その数が多くなれば、グループが形成され、共同体ができあがっていきます。そして、「宣教共同体」に発展していくのでしょう。

「わたしの顔」は宣教仲間作りへ向けて、どのような表情を見せているのでしょう。元気な笑顔は、明るい、勢いのある顔は、心身の健康を助長させてくれます。その力を借りて、響き合う仲間づくりを目指しましょう。

【6月30日】年間第13主日(C年)の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました