年間第13主日:信仰とは?ヤイロは自己の無力感を通して神に出会った

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第13主日(B年)の説教=マルコ5・21~43

2018年7月1日

虐待死亡の船戸結愛ちゃん事件で想うこと

「言うことを聞かないので殴った。モデル体形にする」と。誰の言葉かお分かりの方もいらっしゃるかもしれません。「女児 冬にベランダ放置」「目黒虐待、遺棄致死容疑の両親」との見出しが気になります。(讀賣新聞大阪本社、2018年6月7日朝刊) 

東京都目黒区で今年3月、虐待を受けた船戸結愛ちゃん(当時5歳)が死亡した事件で、保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された父親の船戸雄大被告(33歳・傷害罪で起訴)が、結愛ちゃんを真冬にベランダに放置するなどの虐待を日常的に繰り返していたといいます。多くの人が結愛ちゃんの残した手書きのメモに涙したのではないかと思います。

「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」。この言葉の前には次のように書き残されていました。「もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりか もっともっと あしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」

ひらがなのメモは、見る人に大きなショック

覚えたての平仮名でつづられたノートメモは、見る人、読む人に大きなショックを与えたのではないでしょうか。結愛ちゃんは、毎朝4時ごろに一人で起き、平仮名の練習をさせられていたといわれています。船戸被告からは、叱責されることも多く、殴られるなどの虐待も受けていたといいます。育ち盛りのお子さんに、一日一食の日もあったというのであれば、育ちきれないのも至極当然のことと思います。それ故に、結愛ちゃんの体重は5歳児の平均体重を7キロ下回る12.2キロだったといいます。

これらの報道を知ったときの国民の反応はどうだったのでしょうか。少なくとも「どうして、なんでこんなことになってしまったの?」、言葉を失った方も多いのではないでしょうか。

日本人は絆と思いやりを大事にしてきたはず

日本人は、個人的に思っていることですが、「絆」と「思いやり」を大事にしてきた民族ではないかと。これらが日本をダメにしているという方もいらっしゃると思いますが、・・。良し悪しを問うのではなく、人の温もりを感じさせる言葉、表現ではないかと思います。いわば、人間関係の潤滑油の役目を果たしてくれているのではないでしょうか。その潤滑油が枯渇してくると、そのかかわりにぎくしゃく感が増幅されていきます。つまり、本来の「人として」の動きに異変が起こってくるような気がするんです。それが、外部にどのような形で表れてくるのか、その人により、環境により様々でしょう。

福音に登場するのは会堂長と瀕死の娘の話

今日の福音では、病に罹ったヤイロの娘が取り上げられています。親子の絆がどのように形になってあらわれているのかを見ることができるのではないでしょうか。特に父親の言動にそれを見ることができるでしょう。

父親は会堂の司です。社会的にも人間的にも民衆の注目を集め、尊敬の的であったことでしょう。当然のことながら、身分も経済力も保証された恵まれた環境と地位であったと思います。それが、愛する娘の病によって、一変するのです。体のある一か所が痛いのに、全身が気分が悪いのです。すべてがつながっているからです。家族も同じですね。家族の誰かが痛みを感じる時には、みなの士気が高まっていかないのです。むしろ落ち込んでいきます。知らない振りをしておれないのです。それが「家族」という共同体の見えない絆なのではないでしょうか。

年間第13主日:イエスが「起きなさい」と言うと少女はすぐに起き上がった。
年間第13主日(B年)の聖書=マルコ5・21-43 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。

ヤイロは会堂の司という役割上、それまでに人々の幾多の苦しみ、悲しみを見て、その方々を励まし、心の癒しに奉仕してきたことでしょう。宗教の分野でも指導者であったところから、死の問題にもかかわってきたに違いありません。今のわたしたちも同じかと思いますが、第三者の死に対しては、冷静に受け止め対応できるでしょうが、愛してきた家内の人々、特に親子関係においては、そうはいかないのではないでしょうか。なかなか冷静でいることは困難です。愛していれば愛しているほどに、その人の死は悲しく、苦しいものです。同時に、自分の虚脱感、無力感に打ちのめされてしまいます。

娘のために、父親は自分の立場を捨てて・・・

ヤイロは、イエスさまと対立するユダヤ教を守る指導者の立場にあることも忘れ、否、かなぐり捨ててイエスさまの前にひざまずきます。「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうか、おいでになって娘の上に手を置いてやってください」と。そこには、愛する娘の病を前に、なす術をなくした無力な父親の姿がありました。

しかし、これが本来の人の姿なのかなと思います。今の自分の地位も名誉も、他者がいるからこそ受けたものであり、得たものといえます。始まりは「自分の利益を求めるだけ」の動機だったかもしれません。それが高められていくのです。ヤイロもそうでした。イエスさまによって、その動機が高められ、ヤイロは自己の無力感を通して神に出会っていったのです。

他者は、どんな存在であれ、人として、自分と同じ感性を持っています。あの「結愛ちゃん事件」も、ヤイロと病の娘との間にあった「絆」を保てたのでは、・・。

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