「神への道標」
2018年説教の年間テーマ「神への道標」

聖霊降臨(B年)の説教=ヨハネ15・26~27、16・12~15

2018年5月20日

「発達障害 診断が救い」という記事から

「発達障害 診断が救い」「『生きづらさに』対処法」。(讀賣新聞大阪本社、2018年5月16日朝刊)どんな意味なのだろうと思い、その内容文を読んでいきました。

北陸地方に住む20歳代の男性が「幼い頃からの生きづらさの理由に診断名がつき、対処法もあると知ってほっとした」というお話です。

人との会話の中で、周囲に「話を聞いていない」と誤解され、溶け込むことができないでいたといいます。幼少時代から味わってきた息苦しさは、長じてもなお、治まることなく強まるばかりでした。「懲役あと何年だ」。人生を懲役刑になぞらえ、自らのスマートフォンのメモにこう記したのは、社会人二年目の夏だったと。「五感すべてが、苦しみを味わうためだけの器官になってしまったようだ」。出口の見えない絶望感にとらわれ、首をつるためのロープを通販サイトで探していたそうです。発達障害と診断された今は、当時のことを冷静に振り返ることができると言われます。

対処法があり、自助グループもあるらしい

2016年の末、発達障害の一種である自閉スペクトラム症と診断されました。対人関係の機微を理解するのが苦手で、こだわりが強い特性があるといいます。この男性は、昨年から自助グループに入り、同じ障害の仲間と悩みを語り合い、心が少しずつ落ち着いていくのを感じているそうです。「友人のことばと診断なければ、もう死んでいたかもしれない。今はとりあえず生きてみたい」と言っておられます。

社会に出てから発達障害と判明するケースも

専門家などから「大人の発達障害」と呼ばれ、社会に出てから発達障害と判明するケースがあるといわれます。これらのケースは、支援の必要性が指摘されています。「うまく会話ができない」「特定の音に敏感である」などの特性が理解されずに職場で失敗を責められ続けた結果、うつ病など自殺のリスクがある疾患になる例も少なくありません。名古屋外国語大の竹内慶至准教授は「追い詰めないためには、失敗に寛容になるというだけでなく、職場で特性にあった得意な仕事を担当させるなどの仕組みが必要だ」と話しています。

今日は聖霊降臨の祝日です。教会共同体の新たな旅立ちの日でもあります。イエスさまの愛弟子たちの集まりが、共同体の始まりでしょう。彼らは高間に集まって祈っていたのです。マリアさまと共に祈っていた弟子たち、彼らは、イエスさまと起居を共にし、その教えに耳を傾け、奇跡を目の当たりにしてきたのです。もちろん、キリストの復活をも知っていました。

イエスの弟子たちは全員、臆病者だった

その彼らはユダヤ人を恐れ、町の人々を恐れて集まっていたのです。師のいない現実に不安を感じていたとも言えます。苦しみに耐えて重い十字架を背にしているイエスさまを、弟子たちの一人ひとりが見捨てて逃げ去っていったことを思い起こせば、その心情を慮ることができます。全員が臆病な人たちの集まりだったのです。その弟子たちが祈っていたのです。

現代の教会をつくっているわたしたちも、弟子たち同様に、弱い存在です。また、非常に俗っぽく、わがままな視点を捨てきれていないままの人間です。しかし、信仰者として、イエスさまの心を心として生きようとする善意にあふれてはいるのです。その善意はあっても、それになかなか徹しきれていないのです。それ故に、教会の現実の姿は、わたしたちの醜さやずるさゆえに、すべての人々に開かれた救いの場にはなっていないのではないか、心ある人々にとっては憂鬱な状態ということができます。

師不在で絶望の弟子たちを支えたのは祈り

「発達障害」の青年が味わった苦しみ、不安、師がいないことからくる絶望感みたいなものを感じていた弟子たち、その彼らを支え続けたのが「祈り」であり、そして、彼らに変化をもたらしたのが「聖霊」だったのです。人間的な次元を超えて、聖霊との出会いを実現させたのでした。絶望しかけていた弟子たちにとって残された唯一の道は、神に向かって自分を開くことでした。それは、自分の弱さ、汚れ、醜さをしっかりと見つめ、認め、のり越えたいという強い願いがあるかということでした。いわゆる神への「自己奉献」です。

祈りにすぐさまの効果がなくても祈り続ける

祈りのあるところに、即、神の働きがあるかといえば、現実には感じられないことが多いです。弟子たちも、だから、祈り「続けた」のです。辛さの中にあって、苦しみの中にありながらの「祈り」だからこそ、弱いわたしたちの中に、じわじわと神のありがたさが、恵みがしみ込んできます。それは神の強さであったり、わたしたちの穢れを覆いこんでしまう輝きであったりします。

このようにして生まれた教会は今のわたしたちに引き継がれています。わたしたち一人ひとりは、現に、誰かの助けをいただきながら生きています。聖霊に対して、開かれた心、救いを渇望する心を捧げ、祈り願いましょう。教会が、わたしたち一人ひとりが生きた救いのしるしとなれますように、・・。