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年間第13主日:日常の身近な出来事、ふるまいの中にイエスからのメッセージを見る

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年間第13主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第13主日(B年)の説教=マルコ5・21-43

2024年6月30日

「メッセージはありません」というメッセージは、なにを言わんとしているのか興味がそそられました。(南日本新聞2024年6月21日朝刊)

その見出しはコラム記事です。それは小説家の角田光代さんが書かれているものでした。小説を書いて、雑誌や新聞等で紹介されるとき、そのインタビューで聞かれることに、「この小説に込めたメッセージは何ですか」と質問されますが、そのたびに答えるのが「メッセージはありません」という見出しのことばでした。そのことばの背景には、彼女のはっきりとした思いがあったのです。

彼女は、「小説は出版されたのちは読み手のものであると私は思っている。どんな感想を持とうと、どんなふうに読もうと、つまらないと切り捨てようと、人生が変わろうと、それは読み手の問題であり、つまりは読み手の自由だ。私はずっとそう思ってきた」と言われます。

また、次のような言及もあります。「受験生になったときに、初めて進学塾で国語問題の解き方を教わり、衝撃を受けた。それは『読む』読み方ではなくて『解く』読みかただった。直近の指示語と名詞を組み合わせて論理的に答えを導き出すのが『解く』読みかたで、私はそれを習得したので、たぶん今でも、自作がテキストのテストで正解を導き出すことはできる。でもそれは小説の読みかたではない」と。ひょっとして、出題する側の「自己満足?」だとすれば、・・・、こんなこと言えないですよね。

いずれにしても、わたしたちの日常は、いろいろな場所で、さまざまな媒体を活用して、生活できるようになっています。便利なもの、自分の感性にピッタリ合う人、場所、その他すべてが「わたし」という人間の成長にとってプラスになることばかりです。仮にネガティブに見えること、話しでさえ、わたしたちはプラス、肯定的な媒体、考え方にそれを変化させるだけの能力を持ち合わせています。

仮に今、直面している厄介な問題、人があるとして、そのもの、人が自分にとって身近な事柄、人であるとすれば、その苦悩、悲しみ、辛さはいかばかりでしょうか。

今日の福音では、そのような話が登場します。幸せな家庭、健康的な家庭、元気な家族の一人ひとりの姿は、誰もが期待し、願って日々を生きています。しかしながら、自分が思うままに事は進みません。実現しないのです。永久に変わることのない平和、楽しみを望んだとしても、現実に展開されていく日々は、そうそうまくはいきません。だからといって、努力を怠っているわけでもないのです。しかし、わたしたちは自らの無力さを知らされることの連続です。とはいっても、同時にわたしたち一人ひとりの本当の姿は何なのかを振り返り、そこに向かっていくためのよい機会ともなっているのです。が、そのことに気づく人が、果たしてどれだけいるのでしょうか。

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福音に登場する会堂の司としてのヤイロは、宗教の分野における人々の指導者であったはずです。不幸に直面した人々を励まし、また、慰める立場で、多くの場面に遭遇してきたことでしょう。その出来事を冷静に受け止め、そっと支える側に立ち続けてきたのではないでしょうか。その彼が、今、自らの娘の死に直面しているのです。これまでは冷静に人々の死を受け止め、励ましてきたであろう彼が、血のつながりのある娘の死に相対している今、何を思い、何を感じているのでしょうか。

彼は、なりふり構わず、イエスの前に額ずきます。イエスと対立するユダヤの宗教的伝承を引き継いでいることも忘れたかのような振る舞いです。しかも、人々の指導的立場にあった面子も影を潜め、赤裸々な一人間としての無力な姿がさらきだされていました。会堂長のヤイロの姿は、娘を苦しみから救いたい、イエスにお願いしたい一心です。

そして、自宅に向かっている途中で、娘が亡くなったことが知らされます。これにより、ヤイロは一縷の望みすらも打ち砕かれてしまいました。娘を愛すればこその父親の一生懸命さ。それは、その態度にはっきりと出ていたのではないでしょうか。だからこそ、イエスは落胆の境地にあるヤイロに声を掛けます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。

この言葉に託されたイエスの思いは何なのか。何を信じればいいのかは、はっきりと知らされません。でも、イエスがその言葉に込めた思いは、希望が無くなったように見える「無」のその先にあるもの、いる方を示されているということです。その方はイエスにとって力の源泉となっている方です。天のおん父です。

また、家の前で「泣き騒ぐ」人々にも言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と。この言葉にも、イエスは、生きる希望を与える神を、「無」の向こうに見るイエスが来ると、「死」はその力を失って「眠り」となるということを示されています。イエスは死者を生き返らせる、復活させる力を持っているからです。

イエスが示す言動には、明らかに確たる「メッセージが込められて」います。それは今のわたしたちに対しても同じでしょう。つまりは、身近に起きる出来事、振る舞いの中に、そのメッセージを読み取ることができれば、わたしたち一人ひとりの生き方に大きな変化がでてくるのではないでしょうか。もちろん、神に向かう一人ひとりとなっていく方に。

そのことをひそかに期待し、恵みを願いつつ日々を生き抜いていきましょう。

 

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