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復活の主日:イエスの死は、わたしたちを神につなぎとめた

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復活の主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9

2024年3月31日

大事な人、尊敬される人を亡くした後の失望感、けだるさ等、体験なさった方はいらっしゃると思います。ある場合は、体調に変化をきたして、体を壊してしまう時もあるようです。それだけ心身の支えとなっていてくださった方だったということができるのではないでしょうか。その方が生存中はそんな意識はなかったにしても、いなくなれば、にわかにそのことを感じてしまうことはあると、よく聞きます。

実は、わたしもあるんですよ。なんとも、口ではうまく表現できないような心身の状態に陥ってしまいます。その状態が長引くと一種の病気の状態に陥ってしまいます。周りを見ても感動するものもないし、惹かれるもの、ことを見出すことすらできなくなっていきます。そして、人との交わりにも魅力を感じないというか、楽しさが味わえないんですね。こうして、だんだんと人間らしさが失われていくんだなということができます。

今日の福音書の中で、マリアの落ち着きのなさが始まったのが、「墓がからであった」ことにはじまります。イエスの遺体を納める時に、マリアは確かに見たはずです。だからこそ、当然あるはずのご遺体がないことに、その驚きを禁じえませんでした。

聖書にある通り「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。」さらに聖書は言います。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」と。

復活の主日/イースター:マグダラのマリアは墓から石が取りのけてあるのを見た
復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。

これだけ慎重に十分な確認作業を通して、墓に納めたはずのご遺体がないのです。墓の入り口は石でふさがれ、見張りの番兵までおいていたはずのイエスのお墓です。マリアの心が普通の状態でなくなるのもわかるような気がします。その後のマリアの言動を見ると、マリア自身の心を感じ取ることができます。

一方で、マルコは主の復活が大きな出来事であるというところに重点を置いていないように思えます。むしろ、復活という出来事の中で起きる、主との出会いの大切さに重点が置かれているように思えます。それというのは、「お目にかかること」が大切にされているからです。神との出会い、これが復活の目的であるということができます。

実際に、主の復活後、主は弟子たちを始めたくさんの人と出会います。そして、イエスが生きている間に話したこと、奇跡、その他、思えばすべてがイエスとの出会いでした。悲しいかな、人間にはすべてをわかるだけの力がなかったのです。その結果が、イエスの処刑でした。復活後の出会いを通して、過去においてイエスが行われた言動などが、一人ひとりの中ではっきりとしていったのです。その典型が、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24章32節)と語り合った洗礼者ヨハネの二人のエマオの弟子たちの話です。

それまでは、人間の世界の判断、見方しかできなかった弟子たち、マグダラのマリアたちも、上のことを見つめるようになっていったのでした。これも「出会い」の結果です。

最後の晩餐の席においても、弟子たちはイエスの真意に触れていなかったのです。その弟子たちが、イエスが復活した事実を前にして唖然とせざるを得ないのは当たり前とも言えます。マリアからの連絡によって墓に飛んできたペトロとヨハネ。彼らも墓がからであることを確かめますが、無言のままです。否、「どこからきて、どこに行かれるのか」弟子たちには答えがないのです。

本当のことは徐々にしか明らかにされていかないんですね。弟子たちにとっても、少しずつイエスの心に近づいて行ったのでしょう。イエスを見出すためには、どうすればいいのかを知らせてくれているのが、今日のマリアの行動であるといえます。つまり、自らが求める場所、道にはイエスはいないということ。マリアにはイエスがどこにいるのかわからないので、自分が求めている場所、方向に向かっているのです。あくまでも、人間の常識の範囲内で探し出せるという条件を、自らが提案し、そこに埋没していることになります。

通常の人間は、大体同じような生き方をしています。自分の責任なのに、それをいとも簡単に、当たり前のように責任転嫁して平然としています。といっても、そうした自分に気づいていない人が多いという方がより正しいのでしょうか。

いずれにせよ、イエスの死はわたしたちと同じ道をたどり終わっています。ただ一つ違うのは、「わたしたちと同じ試練にあったが、罪を犯すことがなかった」ということでしょう。

イエスという大事にされていた人は、自らが死ぬことでわたしたちに近くなったのです。別の言い方をすれば、「神との関係を断つ死を、つなぎとめている」のが、イエスの死です。

 

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