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主の復活(イースター)

日曜日の聖書

復活の主日/イースター:二人の弟子は墓に入って、空の状態を見て、信じた

復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。
2018年/B年説教=神への道標

復活の主日:イエスの復活は救いの保証。それはすべの人に開かれている

イエスさまの死と復活は、全人類のために、どのような差別もなしに、わたしたち一人ひとりをつつみこんでくださる神の温かい招きであり、わたしたちの救いの保証です。
2017年/A年説教=神のふところ

復活の主日:イエスの十字架と復活の出来事を「わたしの体験」にしたい

「イエスの十字架と復活の出来事」が、人間の救いにとって決定的な意味と力をもった出来事である、という「わたしの体験」になってきたとき、キリスト者としての誕生(洗礼)となります。そして、その出来事に込められている神のやさしさと愛、恵みと力の証人ともなっていきます。
2011年/A年説教=神のみことば

主の復活:「空の墓」とは?何かが完全に終わるとところに、まったく新しい何かが始まる

過去の生き方に留まるのではなく、まったく新しい世界に導いてくださるのが今日の祝日です。マリアも二人の弟子たちもそのことには気づいていません。人の醜い思いにつぶされたイエスさまの受難と死は、まったく形を変えて、人の救いというイエスさまのわたしたちへの愛に変えられたのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

復活の主日:マグダラのマリアの関心が「遺体」だったのも無理からぬこと

彼女にとって、イエスさまは、その人生を転換できる大きな契機をくださった方です。それこそ彼女にとっては「かけがえのない」方でした。だから、せめてご遺体を求めたのでした。イエスさまを思い出し、自分を律していくための力となると思ったのでしょう。
2012年/B年説教=主との出会い

主の復活:死は人の最終章だがイエスは常識を超えたところに

人間の常識の世界の中にイエスさまはおられないのです。人間の常識を超えたところにイエスさまは存在されるのです。そうあらしめたのはほかでもないおん父なのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

復活の主日:復活の核心は苦しみ、悲しみのきわみの果てに

主の復活(C年)の説教=ヨハネ20.1~92013年3月31日   ものごとの変化、成長は、その周囲の環境に影響されていきます。わたしたち人間も例外ではありません。嬉しいことがあれば、それが他者の慶事でも、自分までもが楽しくなってきます。逆...
2016年/C年説教=神のぬくもり

復活祭:主の復活は絶望の中に希望を湧きあがらせてくれる

年老いてもなお、周りの人に元気とやる気を与え続けられるひとも、その人なりの「復活」と言えないでしょうか。年齢を重ねて、その年齢にあった魅力を、新たに生み出しているのです。
2015年/B年説教=イエスのこころ

復活の主日:人間的常識にこだわる限り、「わかりません」としか言えない

すべての人に死は訪れます。人間的に見れば、死によってすべてが終わりです。しかし、「主の復活」は神とつながっている限り、死を乗り越えて新たな命につながっていくことを、わたしたちに保証してくださった、大きな希望をいだかせてくれる出来事です。
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