『四旬節第2主日』の聖書と説教一覧はこちら

カトリックカレンダー【典礼暦】その週の聖書と説教へのリンク付き

この記事は約1分で読めます。

カトリック教会の典礼暦(教会カレンダー)と国民の祝日を掲載。主日や祭日の個別ページでは、典礼暦に対応する聖書と説教(メッセージ)へのリンクなどもあります。
このページでカレンダーが表示されない場合は、こちらをクリックしてください。

1
2
3
4
5
6
7
年間第5主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月7日
年間第5主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月7日
2月 7 終日
年間第5主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月7日
年間第5主日【2月7日】聖書の朗読箇所 第1朗読 ヨブ7・1~4、6~7 〔ヨブは言った。〕この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ傭兵のように報酬を待ち望む。そうだ、わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日・・・ 第2朗読 Ⅰコリント9・16~19、22~23 〔皆さん、〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは・・・ ・・・ 福音 マルコ1・29~39 https://8263.jp/seisyo/1861.html/ 年間第5主日の聖書とメッセージはこちらです 年間第4主日(B年)  年間第6主日(B年)
8
9
10
11
世界病者の日
世界病者の日
2月 11 終日
  2019年「世界病者の日」教皇メッセージ(2019.2.11) カトリック中央協議会HPから 第27回「世界病者の日」教皇メッセージ 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8) 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)。これは、イエスが、福音をのべ伝えるために使徒たちを派遣する際に、無償の愛のわざを通してみ国を広めるよう述べたことばです。 第27回「世界病者の日」がインドのコルカタで2019年2月11日に厳かに祝われるにあたり、病者をはじめとするすべての子らの母である教会は、よいサマリア人のように無償で与えることが福音宣教のもっとも確かな方法であることを、わたしたちに思い起こさせます。病者に対するケアには、専門的な技能と愛情、さらには優しく触れる行為のような、「愛されている」と相手に感じさせる無償で直接的で飾らない行いが求められます。 いのちは神から与えられた「恩恵」(たまもの)です。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(一コリント4・7)と聖パウロが指摘しているとおりです。神から与えられた恩恵であるからこそ、単なる所有物や私有財産とみなすことはできません。医学とバイオテクノロジーの進歩により、「いのちの木」(創世記3・24参照)の操作への誘惑に人々がさらされている状況においてはなおさらです。 その「恩恵を互いにささげ合うこと」(たまもの)は、新たなきずなと多種多様な協力関係を諸民族、諸文化の間に結ぶために、利己主義や現代社会の分断化に挑戦することを可能にする枠組みとして位置づけられるべきであることを、わたしは、使い捨てと無関心の文化に直面する中で強調したいと思います。対話は、恩恵をささげ合うことの前提となるものであり、人類を成長、発展させ、社会における権力の行使という既成の構図を打破することのできる、人間関係の幅を広げます。ささげ合うことは、単に贈り物をすることと同じではありません。自分自身を差し出してはじめてそう言えるのであって、単なる財産や物の受け渡しではありません。そこには自らをささげることが含まれており、きずなを結びたいという願いが伴っているからこそ、贈り物をすることとは異なるのです。このように、ささげ合うことは、何よりもまず互いに認め合うことであり、社会的きずなにとって不可欠な行いです。そこには、御子イエスの受肉と聖霊の注ぎのうちに頂点に達する神の愛が映し出されているのです。 人はだれもが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれたときには、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、わたしたちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。こうしたことは、わたしたちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。この事実を率直に認めることにより、わたしたちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。 こうした認識は、個人のものであり共同体のものでもある善を見据えながら、責任をもって行動し、他の人にも責任を負わせるよう、わたしたちを導きます。人が自分自身のことを、孤立した世界ではなく、その本性上、他のすべての人と結ばれたものとして捉え、本来は互いに「兄弟姉妹」だと感じるときにはじめて、共通善に基づく社会的連帯は可能になります。自分は助けを必要とし、必要なものすべてを自分で得られないからといって、気に病むことはありません。自分ひとりでは、自分の力だけでは、どんな限界も克服できないからです。恐れずにそのことを認めましょう。神はキリストのうちに自らへりくだり(フィリピ2・8参照)、わたしたちを助け、わたしたちの力では決して得られない善を与えるために、わたしたちとその貧しさの上に身をかがめてくださったのですから。 インドで厳かに式典が行われるにあたり、わたしは貧しい人と病者への神の愛を目に見えるかたちで示した、愛のわざの模範であるコルカタの聖マザー・テレサの姿を、喜びと称賛のうちに思い起こしたいと思います。彼女の列聖式で述べたように、「マザー・テレサは全生涯にわたり、生まれる前のいのち、世間から見放され見捨てられたいのちといった、人間のいのちを受け入れ守ることを通して、すべての人が神のいつくしみを手にできるよう惜しみなく分け与えました。……衰弱しきって死にかけている人の前にかがみ、道の端に連れて行って死を迎えさせてあげました。神がその人たちにお与えになった尊厳を認めていたからです。彼女は、この世の権力者の前で声を上げ、権力者自身が生み出す貧困という犯罪……に対する彼らの責任を自覚させようとしました。マザー・テレサにとっていつくしみは、彼女の働きのすべてに味をつける『塩』であり、貧困と苦しみのために涙も枯れ果てた人の闇を照らす『光』でもありました。都市の周辺部と、実存的辺境に対して彼女が行った宣教は、神が極限の貧困にあえぐ人々に寄り添っておられることを雄弁に物語るあかしとして、今の時代にも生き続けています」(「列聖式ミサ説教」2016年9月4日) 聖マザー・テレサは、言語や文化、民族、宗教の違いにかかわりなく、すべての人に無償の愛を示すことこそが、活動の唯一のよりどころであることを教えてくれます。彼女の模範は、理解と優しさを求めている人々、とりわけ苦しんでいる人々のために、喜びと希望の展望を切り開くよう、わたしたちを導き続けます。 医療活動にとって極めて重要であり、よいサマリア人の精神をあらゆる形で体現しているボランティアの人々にとっては、無償であることこそが活動の原動力です。患者の搬送や救護に従事しているボランティア団体、さらには血液、組織、臓器提供のために尽力しているボランティア団体に、わたしは感謝と励ましの意を表します。人々の間の意識を高め、予防を充実させることも忘れてはなりませんが、教会がとりわけ注目しているのは、病者の権利、とりわけ特別な治療を要する患者の権利を擁護する活動です。また、医療機関や在宅ケアでの皆さんのボランティア活動は根本的に重要なものであり、保健衛生から精神的サポートまで多岐にわたっています。その活動は病者、孤立した人、高齢者、心やからだが衰弱している人など、大勢の人々のために役立っています。わたしは皆さんが、この世俗化した世界において教会のしるしであり続けるよう願っています。ボランティアは、思いや感情を打ち明けることのできる公平無私な友です。傾聴することを通して彼らは、治療される受動的な存在である病者を、相互の関係における能動的な主体へと変えることができます。それにより病者は希望を取り戻し、治療を受ける心構えをもてるようになるのです。ボランティア活動は、「ささげる」というパン種を核心とする価値観、姿勢、生き方を伝えています。それは、治療をより人間味あふれるものにする活動でもあります。 とりわけカトリック系の医療機関は、無償であるという側面によって推進されるべきです。その働きは世界中、先進地域においても極貧地域においても、福音の論理のもとに行われているからです。利益最優先の論理、見返りを求める論理、人間を無視した搾取の論理に対して、カトリック諸機関はささげること、無償であること、連帯することの意味を明らかにするよう求められています。 利益優先の使い捨て文化を克服するために欠かせない無償で与える文化を、あらゆる分野に広めるよう、わたしは皆さんに強く求めます。カトリック系の医療機関は、利益優先主義に陥ることなく、収益よりも人々への配慮を重んじるべきです。健康状態は他者との関係に左右される相関的なものであり、信頼関係と友情、連帯を必要とすることは言うまでもありません。それは、分かち合ってはじめて「十分に」味わうことのできる恵みです。無償で与える喜びは、キリスト者の健康状態を示す指標なのです。 わたしは「病者の回復」であるマリアに、皆さんをゆだねます。わたしたちが対話と相互受容の精神のもとに受けたたまものを分かち合い、他者の必要に心を配りながら兄弟姉妹として生き、寛大な心で与えるすべを身につけ、私欲にとらわれずに奉仕する喜びを知ることができるよう、マリアが助けてくださいますように。わたしは祈りのうちに皆さんに寄り添うことを約束し、心から使徒的祝福を送ります。 バチカンより 2018年11月25日 王であるキリストの祭日 フランシスコ
建国記念の日
12
13
14
年間第6主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月14日
年間第6主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月14日
2月 14 終日
年間第6主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月14日
年間第6主日【2月14日】聖書の朗読箇所 第1朗読 創世記3・16~19 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった・・・ 第2朗読 Ⅰコリント10・31~11・1〔皆さん、〕あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を・・・ 福音 マルコ1・40~45 https://8263.jp/seisyo/1867.html/ 年間第6主日の聖書とメッセージはこちらです 年間第5主日(B年)  灰の水曜日(B年)
15
16
17
灰の水曜日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月17日
灰の水曜日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月17日
2月 17 終日
灰の水曜日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月17日
灰の水曜日–2月14日/大斎・小斎–聖書の朗読箇所 第1朗読 ヨエルの預言 (ヨエル2・12~18) 主は言われる。 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。 衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。 主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。 あるいは、主が思い直され、その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。シオンで角笛を吹き、 断食を布告し、聖会を召集せよ。 民を呼び集め、会衆を聖別し、長老を集合させよ。 幼子、乳飲み子を呼び集め 花婿を控えの間から、 花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き、主に仕える者は言うがよい。 「主よ、あなたの民を憐れんでください。 あなたの嗣業である民を恥に落とさず 国々の嘲りの種としないでください。 『彼らの神はどこにいるのか』と、 なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」そのとき、主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた。 第2朗読 コリントの信徒への手紙 (Ⅱコリント5・20~6・2) 〔皆さん、〕神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。 わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」 と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 福音 マタイによる福音 (マタイ6・1~6、16~18) 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 https://8263.jp/blog/5256.html/ 灰の水曜日に関するブログ記事はこちらです フランシスコ教皇の今年の四旬節メッセージが発表されていますので、引用・紹介します。 2018年四旬節教皇メッセージ 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24・12) 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 復活祭がまた近づいてきました。神は摂理により、「わたしたちの回心の秘跡的しるし」[1]である四旬節を、復活祭に備えるために毎年、与えてくださいます。四旬節は、生活のあらゆる側面で心の底から主に立ち帰るようわたしたちに呼びかけ、そのことを実現させます。 今年も、この恵みのときを喜びと真理のうちに過ごせるよう、このメッセージを通して、わたしは教会全体のために役立ちたいと思います。そのために、わたしはマタイによる福音書に記されたイエスのことばの導きに身をゆだねます。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24・12)。 このことばは、終末に関するキリストの説教の中に表れます。それは主の受難が始まる場であるエルサレムのオリーブ山で告げられました。イエスは弟子たちの質問に答え、大きな災いを予告し、信者の共同体に起こりうる状況を描きます。痛ましい出来事を前にして、偽預言者たちが多くの人を惑わし、福音全体の中心である愛が人々の心から消える恐れがあります。 偽預言者 この箇所に耳を傾け、自分自身に問いかけましょう。偽預言者はどんな姿をしているでしょうか。 彼らは、人々を奴隷にして思い通りに動かすために、人間の感情を操る「蛇使い」のようです。どれほど多くの神の子が、一時的な楽しみを幸福と取り違え、そのとりこになっていることでしょう。いかに多くの男女が、金銭という幻想に夢中になりながら生活していることでしょう。その幻想は実際、人々を利益やわずかなもうけの奴隷にするだけです。自分自身に満足していると思いながらも、孤独に支配されている人がどれほどいることでしょう。 偽預言者は「詐欺師」にもなります。彼らは苦しみに対して簡単で手短な解決策を示しますが、それらはまったく役に立ちません。どれほど多くの若者が麻薬、「用が済めば切り捨てる」人間関係、安易だが不正な利益といった誤った治療を施されていることでしょう。また、まったくバーチャルな生活にとらわれている人々がどれほどいることでしょう。そこでの結びつきは、非常に容易で迅速であるかのように思えますが、まったく無意味であることがのちに判明します。これらの詐欺師は価値のないものを与え、その代わりに尊厳、自由、愛する力といったもっとも大切なものを奪います。思い上がりという錯覚により、わたしたちはうぬぼれ屋になり……愚かな状態に陥ります。そして、その状態からのちに自分自身を取り戻すこともありません。これは驚くべきことではありません。「偽り者であり、その父」(ヨハネ8・44)である悪魔はずっと昔から、人間の心を混乱させるために、悪いものを良いものとして、偽りのものを真のものとして示してきたからです。したがってわたしたちは、自分がこの偽預言者の嘘にだまされていないか、自らの心を各自で識別し、見極めるよう求められています。その場限りの表面的なレベルにとどまらずに、心にいつまでも残るよいしるしを見分けるすべを学ばなければなりません。それらは神がくださるものであり、わたしたちの幸福にとって真に価値あるものだからです 冷えた心 ダンテ・アリギエリは、地獄に関する記述の中で、氷の玉座に座った悪魔の姿を描いています[2]。悪魔は、愛のない氷の家に住んでいます。ここで自分自身に問いかけましょう。わたしたちの中で愛はどのように冷えていくのでしょうか。心の中から愛が消えてしまう危険を表す兆候は、どのようなものでしょうか。 「すべての悪の根」(一テモテ6・10)である金銭欲は、何よりもまして愛を弱めます。そして人は神を拒むようになり、そのために神のうちに慰めを求めることを拒絶し、みことばや秘跡による慰めよりも孤立した状態を好むようになります[3]。こうしたすべてのことは、胎児、病気を患う高齢者、移動者、外国人、さらには自分の期待にそぐわない隣人といった、自分にとって「確かなもの」を脅かすように思われる人に対する暴力を引き起こします。 被造物もまた、このように愛が冷えることを静かにあかししています。地球は無関心と利益追求のために捨てられた廃棄物によって汚染されています。海も汚染されています。不幸なことに海は、移住を強いられ難破した多くの人の遺体を覆わなければなりません。神の計画のもとに神の栄光を称える天空にも、死の道具を降らす兵器の筋が残されています。 わたしたちの共同体の中でも愛は冷えています。使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしはこの愛の欠如のもっとも顕著なしるしを描こうとしました。それらは怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方などです。こうして、宣教的な情熱は失われていきます[4]。 何をすべきか たとえ、これまで述べてきたしるしをわたしたちが自分自身の内面や周囲に見つけたとしても、母であり師である教会は、この四旬節の間、祈りと施しと断食という美味な薬を、時には苦い真理の薬と一緒に与えてくれます。 「祈る」ために長い時間を費やすことにより、わたしたちの心は自分自身をあざむく隠れた嘘を暴き[5]、神の慰めを最終的に探し求めます。神はわたしたちの父であり、わたしたちが生きることを望んでおられるのです。 「施し」は、わたしたちを欲深さから解放し、隣人が自分の兄弟姉妹であることに気づかせてくれます。自分のものは、自分だけのものではないのです。施しがすべての人の真のライフスタイルになったらどんなによいでしょう。わたしたちキリスト者が使徒の模範に従い、自分のものを他者と分け合うことの内に、教会に息づいている交わりの具体的なあかしを感じ取ることができたらどんなによいでしょう。この点についてわたしは、聖パウロがエルサレムの信徒のために献金するよう、コリントの信徒を促したときのことばを繰り返します。「それがあなたがたの益になるからです」(二コリント8・10)。このことばは、多くの団体が教会や困窮している人々のために献金を集める期間である四旬節にとりわけ当てはまります。また日々の人間関係の中でも、助けを求める兄弟姉妹を前にして、その人を神の摂理からの呼びかけとして受け止めることができたらどんなによいでしょう。一つひとつの施しは、ご自分の子どもに対する神の摂理にあずかる機会です。もし今日、誰かを助けるために神がわたしをお使いになるなら、明日にはわたしが必要としているものも与えてくださるかもしれません。神ほど惜しみなく与えるかたはいないのです[6]。 最後に断食は、わたしたちの中にある暴力を鎮め、武装を解かせるものであり、わたしたちの成長にとって重要な機会です。断食は、必要最低限のものさえ不足する状態や、空腹に見舞われる日々の苦しみを体験させてくれますが、その一方で善意に飢え、神のいのちを渇望している、わたしたちの霊的状態も表しています。断食はわたしたちを目覚めさせ、神と隣人にさらに心を向けるよう促し、神に従う意欲を燃え上がらせます。神はわたしたちの飢えを満たす唯一のかたなのです。 わたしは、心を開いて神に耳を傾けようとしている善意あふれる皆さんに、カトリック教会の垣根を越えてわたしの声を届けたいと思います。もし皆さんが、わたしたちのように、この世に不正がはびこっていることに心を痛め、人々の心と行いを麻痺させる冷淡さに懸念を抱き、共通の人間家族の一員であるという意識が弱まっていると感じているなら、わたしたちと一緒に神に祈り、ともに断食し、兄弟姉妹を助けるために自分にできることを行いましょう。 復活祭の炎 とりわけ信者の皆さんにお願いします。施しと断食と祈りによって力づけられ、熱意をもって四旬節の歩みを進めてください。たとえ多くの人々の心から愛が消えそうになっても、神の心がそうなることは決してありません。神は、わたしたちが再び愛し始められるように、新たなチャンスをつねに与えてくださいます。 今年も、恵み深い機会として「主にささげる24時間」という取り組みを行います。その際には、聖体礼拝においてゆるしの秘跡を受けることが望まれます。2018年には、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩編130編4節の中のことばに導かれながら、3月9日金曜日から10日土曜日までこの取り組みを行います。各教区の中で、少なくとも一つの教会は24時間ずっと扉を開き続け、聖体礼拝とゆるしの秘跡を行う機会を提供します。 復活徹夜祭に、わたしたちは再び復活のろうそくをともし、感動的な光の祭儀を行います。この「新しい炎」から生じる光は、暗闇を少しずつ消し去り、この典礼に集まった人々を照らします。「輝かしく復活したキリストの光が、心のやみを照らしますように」[7]。そして、わたしたち全員が、エマオの弟子たちの体験を再び味わうことができますように。みことばに耳を傾け、聖体によって育まれ、わたしたちの心が信仰と希望と愛によって再び燃え立ちますように。 わたしは心から皆さんを祝福し、皆さんのために祈ります。どうか忘れずに、わたしのために祈ってください。 バチカンにて 2017年11月1日 諸聖人の祭日 フランシスコ 注 『ミサ典礼書』四旬節第一主日集会祈願(イタリア語版)。 「悲しみの王土の大帝は、胸の半ばから上を氷の外に出して立っていた」(『神曲』、地獄編第34歌28-29〔寿岳文章訳、『ダンテ神曲地獄編』集英社〕)。 「不思議なことに、わたしたちは慰めを恐れ、慰められることを恐れるときがあります。実際、悲しみや惨めさのうちにあるほうが安全であると感じたりします。なぜだか分かりますか。なぜなら、悲しみのうちにあるとき、わたしたちは自分が主人公だと感じるからです。それとは逆に、慰めのうちにあるときには、聖霊が主人公です」(「お告げの祈り」でのことば、2014年12月7日)。 76-109参照。 教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』33参照。 教皇ピオ十二世回勅Fidei donum, 3。 『ミサ典礼書』復活徹夜祭、光の祭儀。 引用元:カトリック中央協議会 2018年 四旬節教皇メッセージ 年間第6主日(B年)  四旬節第1主日(B年)
18
19
20
21
四旬節第1主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月21日
四旬節第1主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月21日
2月 21 終日
四旬節第1主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月21日
四旬節第1主日【2月21日】聖書の朗読箇所 第1朗読 創世記9・8-15 神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 第2朗読 Ⅰペトロ3・18-22 〔愛する皆さん、〕キリストは、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 福音 マルコ1・12~15 https://8263.jp/seisyo/1873.html/   四旬節第1主日の聖書と説教の記事一覧はこちら 灰の水曜日(B年)  四旬節第2主日(B年)
22
24
25
26
27
28
四旬節第2主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月28日
四旬節第2主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月28日
2月 28 終日
四旬節第2主日(B年)<カトリック教会の典礼暦>2021年2月28日
四旬節第2主日【2月28日】聖書の朗読箇所 第1朗読 創世記22・1-2、9a、10-13、15-18 〔その日、〕神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい・・・ 第2朗読 ローマ8・31b-34 〔皆さん、〕もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか・・・ 福音 マルコ9・2~10 https://8263.jp/seisyo/1878.html/   四旬節第2主日の聖書と説教の記事一覧はこちら 四旬節第1主日(B年)  四旬節第3主日(B年)
タイトルとURLをコピーしました