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復活節第2主日:押し売りではなく、神からいただいた慈しみを、多くの人に分かち合い

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復活節第2主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

復活節第2主日(B年)の説教=ヨハネ20・19~31

2024年4月7日

この世に現われ出たわたしたちは、また、一人残らずこの世から消えていきます。若いときは、やる気満々で、がむしゃらに前に突き進むことが大事であって、理想を掲げ、あらゆるチャンスを生かして成長していきます。いい意味で「野心」を持っているものです。それがまた一人ひとりの成長のために必要な栄養剤になっています。このようなことは、誰もが経験していること、または経験してきたことです。こうした傾向、機会、タレントを有効に生かしきれた時に、視野の広い、ゆとりある豊かな人間性を作り出していけるのでしょうね。 いつもそうありたいと思っておりますが、・・。この世に来たからには、なにがしかの役に立つ何かをし、生きてきた充実感を味わわないと、何か勿体ない感じがしないでもありません。

若い頃に、先輩方からよく言われ、勧められたことは、ありきたりな文句ですが、「人生の最後が大事だ」ということでした。これをどのように解するかは一人ひとりのことかもしれませんが、最近思うんですよ。まずは、自分自身が健康であること、いただいている命をいかに大切にしているのか、そのためにどんなことをしているのか、してきたのかが、人生の最後の場において問われるのではないかと。

この春、大学を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが2日、日本赤十字社(東京都港区)へ就職なさいました。就職に際し、宮内記者会の質問に文書で回答されています。「さまざまの困難を抱えている方の力になれる仕事ができればと考えるようになった」とし、大学卒業後に就職を選んだ理由を明かされています。また、両陛下とともに日赤の活動に触れる機会があった経緯を挙げ「社会に直接的に貢献できる活動に魅力を感じた」と説明されています。両陛下に相談したところ背中を押されたといいます。「社会人としての責任感をもって、さまざまなことを身に付け、なるべく早くお役に立てるように精進したい」とつづっておられます。(南日本新聞2024年4月3日朝刊)

いただいた命を健康状態のまま保つことは大事ですが、さらには、その命をいかにこの世において他の人のために生かすかということも、同じように、あるいは、それ以上に大事になってきます。これが、本人にとっての楽しみとなれば、その人の魅力となって外に輝くのではないでしょうか。このことを望んでいるのは、なにも他者だけではなく、神ご自身だって同じでしょう。いや、それ以上かもしれません。

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そして、そのことを最高に示してくれたのは、言うまでもなくイエスです。今日の福音では、その業を引継ぎ、継続し続けるために、弟子たちへの最後の遺言みたいに「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」と、引きこもっていた弟子たちを元気づけられます。弟子たちはユダヤ人が怖くて、一室に閉じこもって身の安全を確保していたのです。

トマスに至っては、彼は逃げ回っていたのです。どうしてなのかを探ってみると、かつてトマスはイエスに言いました。だから、イエスが出現したときに、他の弟子たちと一緒にいることができませんでした。卑怯者といえばそれまでですが、それだけイエスに対するトマスなりの期待感、信頼関係があったのでしょう。それがイエスの死によってすべてが失われてしまいました。無に帰してしまったのです。わたしが思うに、イエスの弟子たちの中で、トマスが一番弱くて、臆病者だったのではないかと。しかし、このような人ほど、まじめな人ではないかとは思うんですが、・・。

でも、逆にイエスを理解し、本当のイエスの姿に触れながらも、深い受け止め方ができていなかったことを意味していることにもなります。イエスは死んでしまえば、それですべては終わりと考えていたのではないでしょうか。自己解釈による早合点も、イエスを理解していなかったことの証拠なんでしょう。トマスとしての人間性、誠実さがよく表れている言動ということができるでしょう。

実は、トマスはその前に体験していたのです。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。『わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。』ユダヤ人たちは答えた。『善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。』」(ヨハネ10章31節~33節)というイエスとユダヤ人たちのやり取りでした。それはあり得ないことだとトマスは思ったのでしょう。しかし、彼の純粋な心が騒いだのです。「ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』」(ヨハネ11章16節)と言ったのです。

格好いいことを言ったにもかかわらず、全うできなかった彼は、心のどん底に落ち込んでしまったのでしょう。次第に仲間から離れていったのです。それだけ正直者だったという気がしております。その彼が、その後いただいている命を精一杯生かして、イエスのよき宣教者としての仕事に従事していくのです。

今日は「神のいつくしみの主日」です。神がわたしたち一人ひとりに示された「いつくしみ」を感謝し、それをまわりのおおくの人々に分かち合ってまいりましょう。それは宣教です。感謝です。

わたしたち一人ひとりの小さいながらも、確かな心、行いが主のみ心に敵うものでありますように願いつつ、・・。

 

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