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復活節第2主日:強いて言うなら、イエスはデジタル派かアナログ派か?

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復活節第2主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

復活節第2主日(C年)の説教=ヨハネ20・19~31

2022年4月24日

人類の生涯の歴史が長くなればなるほど、当然のことながら高齢者の数が増加していきます。それにつれて、さまざまの高齢者向けのサービス、その他、便利な制度が登場してきます。とてもありがたいことです。

人の長寿を喜ぶ一方、なんでも機械化には疑問

その一方で、ちょっとさびしさというか、空しさというか、違和感を覚えるときがあるのも事実です。というのは、便利さ、簡易さ、デジタル化を追求するあまり、何か大事なことを置き忘れてはいないかと思ったりするんです。それというのが、振り返ってみますと、何かと「人」がだんだん遠ざけられているような気がするんです。つまり、年配者にとって、人としての他者との交わりが、無くなっていってはいませんか。新型コロナ感染予防対策とは別に。

何でも機械的なものに取って代わり、具体的に言えば、年配者の相手をするぬいぐるみ、お年寄りの「見守り隊ロボット」など、それぞれの同伴者になっていくという傾向がありはしないかということです。そのような雰囲気、一般社会の動向を感じてしまいます。「ちょっとの間だけ」だよというのであればいいのでしょうが、常態化してしまっているところに、新たな問題を感じてしまいます。新しい病気を発症してしまっているのではないかと思うのです。それは「認知症」を患っている方の数の多さです。お年寄りから「人」を遠ざけてしまうと、認知症のレベルが重症化へと走ってしまうのではないかと思うのです。全くの素人感覚ですが、・・。

人は触れ合い、交わることで互いに生かされる

やはり、人は、人と触れ合って、交わることを通して自分を意識し、自分が生かされ、そしてより人間らしくなっていくのです。人としての温かさ、配慮する心が、より豊かに、大きく成熟していきます。研修会、講習会をしたから育つという類のものではないと思います。

「運転の癖 数値化します」「県警、錦江署で高齢者講習」という新聞の見出しを見つけました。最近、こうした情報の報道記事にはすぐに目がいきます。内容を読んでみますと、車の運転技能が数値化される「運転技能自動評価システム」を使った高齢者講習が8日、錦江町(鹿児島県)の錦江警察署であったという話です。(南日本新聞2022年4月19日朝刊)

管内の南大隅町、錦江町の高齢化率は1日現在、50.2%、46.7%と、それぞれ県内1、2位とみられます。つまり、高齢ドライバーが自分では気づかない運転中の癖や弱点を知り、交通安全の意識を高めてもらうことが目的のようです。運転中、左右を確認する動きや、アクセルとブレーキの踏み換えができているかをコンピューターが記録し、100点満点で点数化して、達成度をA~Eの5段階で評価するというものです。これは、県警の高齢者支援係が県内で初めて開いたということです。

「人」を数値的に評価するのはいかがなものか

偏った見方かもしれませんが、表向きは「安全・安心」運転を強調しながらも、結局は「人」を平均化して数値で評価してしまうことに繋げていき、その人の持っている「人間味」が抹殺されているのではないかと感じます。安全運転は言うまでもなく大事なことです。人は誰を取り上げても完璧な人間はいません。弱いし、ポカをしでかします。それでも味わいのある温かさ、つつみこむ寛大な包容力など、人が人として生きるための大事な要素を秘めています。いい意味で「遊び」があるのです。車のブレーキにも必要な「遊び」があります。これがないと逆に事故の原因にもなり得るからです。だからこそ、「人」をデジタル式で評価するのはいかがなものでしょう、と思ってしまいます。的を外れていますかね?!

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今日の福音書に出てくる人はトマスです。彼は12使徒のひとりです。あまり目立たない存在です。どちらかといえば控えめな人といえるでしょうか。だからでしょうか、十分に深く考えることもなく行動してしまいます。物事の何たるかを十分に分からないままに発言したり、動いたりします。

こうした行動に出る人って、次のように言えるような気がします。自分の未熟な言動を指摘され、それに本人が気付いた時、すぐにその指摘を受け入れ、自己振り返りができる人である、と。

デジタルな評価は分かり易く、便利ではあるが…

今日のトマスは、そのような人であるような気がします。トマスも他の弟子たちと同じように、イエスがどのような人であるのかを、十分にわかっていたわけではありません。それでも、どこかで自分たちの救いを大いに期待していたのです。だから、イエスが亡くなる、しかも十字架刑で亡くなるなんて考えも及ばなかったのです。それで落胆しきって他の弟子たちから離れ、格好よく生きることができない自分に耐えられなかったのでしょう。「死」で終わる人生と思い込んでいたトマスだけに、その失望ぶりは大変なものでした。彼に再生の機会を与えたのが今日の出来事であるといえます。

絶望感にうちひしがれていたトマスについて、 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」と記されています。

このトマスの心が、絶望から希望へ、懐疑から信頼へと転換するのです。それは、彼の望みどおりに、イエスの十字架の傷跡に接した時です。トマスはこの時救われました。それは同時に、今に生きるわたしたちにとっての救いでもあります。イエスを直接見ることもできなければ、話すこともできないわたしたちに、「見ないのに信じる人は、幸いである。」という祝福を、わたしたちに与えてくれるものになったからです。

イエスのわたしたちへの評価は、わたしたち人間の弱さ、いい加減さを承知の上で、一人ひとりを受け入れてくださっているということです。いつくしんでくださっているのです。デジタルはわかりやすく、確かに便利です。

しかし、人の評価は基本的にアナログではないでしょうか。大事にしたいですね。

 

 

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