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主の洗礼:わたしたちの新しい使命は、普通に生きる中に示されていく

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主の洗礼(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

主の洗礼(C年)の聖書=ルカ3・15-16、21-22

2022年1月9日

新年を迎えますと、日本の各地の神社にはたくさんの参拝者が訪れ、「良い年に願いを込めて」「家族の幸祈る」「五穀豊穣や無病息災」を祈る祭典が挙行されます。毎年のことながら、その度に思うのです。日本人は「宗教心」が豊かだなと。

神社参拝は日本人の豊かな「宗教心」の現れ

別の言い方がゆるされるなら、人としての自分の「弱さ」をよく感じている、知っているしるしだといえないでしょうか。だから、祈るんです。願うのではないでしょうか。個人として、家族として。それを正月にするのは、一年の始まりだからですよね。報道では「恒例の正月行事」として紹介されますけど、単に「行事」だけで終わらせるのは実に勿体ない気がします。

一人ひとりの中に持ち合わせている宗教心を増大させ、子どもたちも参加することが多いので、いい「宗教教育」「信仰教育」になるでしょう。大人たちが振る舞っているその姿を子どもたちに見せるのです。必要ならば言葉、説明を加えて、子どもたちとともにして過ごすのです。祈るのです。なんでもそうでしょうが、「教育」という言葉がつく業は、一時的な、瞬間的な行で身につくものはありません。地道な、そして、正確な「事」の繰り返しの中に育ってくるものでしょう。

それを別の表現をするとすれば、「訓練」ということができるでしょうか。何か特別な行をして心身を鍛錬するというのではなく、日々の普通のことを、普通にこなして生きること自体が「訓練」なのです。これこそ、気持ちの変化、意識の高まりを確実なものにしてくれます。「普通である」ことが、名実ともに自らを変化させ、向上させる強大な力となっていきます。

宗教心は「訓練」を経て着実に、大きく育つ

また、お正月の話題になるもう一つの出来事があります。「占い」です。これまた、何かに頼りたいという人間の不安、不満の解消を願っての行動でしょうか。気持ちよく一年を始めて、過ごしていきたいという願望のあらわれでしょう。

指宿市西方の尾掛地区に伝わる伝統的な正月遊び「イシナト」があります。(南日本新聞2022年1月4日朝刊) これは、子どもたちが主になって行われるものです。つまり、大人が転がすボンタンに、子どもたちが一斉に矢を放ち、一年の幸運を占うというものです。子どもたちは一列に並び、「イシナト、イシナト、何じゃなか飛べよ」の掛け声に合わせて、矢を放つのです。北指宿中1年の野元樹さんは「矢が当たってもなかなか刺さらないが、今年初めて刺さった。よい年になりそう」と喜んでいました。しかし、近年の少子化により、地区の小中学生は4人。子ども会会長の花岡昭一さん(47歳)は残念だが仕方がない」と言って、来年は中止することが決まっています。

人はみな、周りに支えられて成長している

わたしたちは誰をとりあげても、すべてにおいて完璧な存在者ではありません。基本的には周りの人に助けられ、励まされ、人としての成長になくてはならない人間関係を築き上げているのです。

主の洗礼:イエスが洗礼を受けて祈っていると、天が開け聖霊が降った
主の洗礼(C年)の聖書=ルカ3・15~16、21~22 〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

みなさんもよくご存じの、パックンこと、パトリック・ハーランさん(51歳)がいらっしゃいます。1993年に来日し、福井県の中高校で英会話の講師を経て上京し、1997年にお笑いコンビ「パックンマックン」を結成しています。パックン家族4人全員が、昨年8月、コロナに感染したとのこと。その際、ご近所の人の助け、温かさを痛感させられました、とおっしゃっています。(讀賣新聞西部版2022年1月3日朝刊)

やはり今の自分たちは、多くの方々に支えられているんだということが、彼の家族だけでなく、わたしたちも同じような人の助けを受ける体験をし、それによって、さらに人の温かさ感じることってあったのではないでしょうか。その振り返る時を持つか持たないか、また、日常生活の中で、そのように意識付けをしていくことって大事ではないのかなと思います。これが「訓練する」ということです。

他者と共に生き、祈りで神と繋がるを念頭に

今日はイエスの洗礼の主日です。ルカは、洗礼者ヨハネからのイエスの受洗を記しています。それは、民衆が皆洗礼を受けたそのあとに受けたとなっています。つまり、イエスは民衆の中の一人として皆の最後に受けたのです。これは、イエスが罪のゆるしを必要としているからではなく、民衆と一つとなり、ともに救いへの道を歩むためです。そして、「霊による洗礼」は、新しく造りかえる力ですから、イエスも使命遂行に必要な力、つまり神とのかかわりを再確認し、それを「民」に示さなければいけないからです。何かが始まるのです。

洗礼を受けた後、祈る姿のイエスが伝えたいことは、受洗の式そのものよりも、新しい何かが始まっていくということなのです。それは、イエスの神に向かう純粋さ、神に向かってひらていく姿を示すことでした。それが「祈る」ということです。それによって、天からの神の声が聞こえてきたのです。このことは、神からの全権がイエスに移譲されたことであり、天からの声によって、イエスの使命に対する自覚が、一層強固にされていったということができます。

ルカが大事にしているのは、イエスは何も特別なことをしたのではないということです。民衆とともに普通のことをし、民衆とともに歩んでいたのです。そして、洗礼を受けました。その中で始まった新しいこと、「祈る」ことによって、人は神とつながることができるという新しい神との関係が誕生したのです。

最後的には、わたしたち一人ひとりは神を必要としています。このことを、人とのかかわり「隣人愛」を通して、神との繋がりを、日常の普通に生きる中で、実感し、さらに高めていけたらいいですね。普段の心身の「訓練」です。

 

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