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王であるキリスト:イエスを受け入れるのか拒むのか。その選択が迫られている

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王であるキリスト(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23・35~43

2022年11月20日

誰しも「人生の岐路」を経験した(する)と思うが

わたしたちは誰でも、大げさな言い方かもしれませんが、「人生の岐路」に立たされた、乃至は立った経験があるのではないかと思います。これは、それだけ「我が道」を真剣に考えている裏返しでもあるということができます。

近頃感じることなんですが、今やその時々で考えが変わり、その道のり、職種を変更することが、いとも簡単にできるようになってきたなという感覚を抱いてしまいます。これが現代人の特徴(?)なのでしょうか、実に「転職」を実現するのが当たり前であると言わんばかりに、乃至はそれを積極的に推進するようなコマーシャルが毎日のように報道されています。

横田家はじめ「拉致被害者家族」に心を馳せると…

ところで、11月15日はある家族の方にとって、それこそ生活が一変してしまった日となってしまったのです。誰もがよくご存じの「北朝鮮拉致事件」の横田めぐみさん(当時13歳)が拉致された日です。今年で45年が過ぎてしまいました。(南日本新聞2022年11月15日朝刊)共同通信のインタビューに応じた母早紀江さん(86歳)は、「静かな家庭が、なぜこんなことになるのか。もがき苦しんだ」と振り返り、解決の糸口が見えない現状に「政府や政治家は真剣に考えてほしい」といらだちを口になさっています。

1977年11月15日夕、学校からの帰宅が遅く、心配して迎えに行きました。中学から始めたバドミントンの部活動がある体育館を覗くと、帰った後で、懐中電灯を持ち近所を捜しまわりました。「煙のように消えちゃった。捜しまわって本当に気が狂うような生活だった」。1997年に拉致の可能性が浮かぶまで20年の月日が過ぎてしまったのでした。

今は激しく弾道ミサイル発射を繰り返し、緊張状態が続く中、拉致問題の進展は見通せないのが現実です。早紀江さんは「拉致被害者をちゃんと返せば、世界から褒められるようになる。家族会はそう訴えているが、金正恩朝鮮労働党総書記まで届かない。それが難儀だ」と話します。そして、日本政府には「志のある方が水面下の話し合いを何回も繰り返さないと動かない」と膠着状態の打開を切実に求めています。

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横田家にとっても、「拉致被害者」を多数出してしまった他のご家族、ひいては日本国自身にとっても、その生き方の分かれ目に立たされてきた、乃至は、未だに立たされているといっても過言ではないでしょう。

いくら人生の「岐路に立つ」または「立たされる」とはいっても、その理由、またその中身は千差万別であろうと思います。自らがその原因になっている場合、他者が引き金になってしまっている場合、また、社会環境が影響している場合など、そのケースも内容も様々です。

今日の福音書には二人の犯罪人が登場。その顛末は

今年度、最後の主日となりました。昔から俗にいう「天国どろぼう」の話が、今日の福音書に出てきます。イエスがその生涯を終えるステージに、二人の盗賊が登場してきます。

先ずこのことは何を意味するのかと思ってしまいました。しかも、イエスがその息を引き取る直前のその時に、新たな出来事が起きるのです。それがイエスを含めた受刑者3人間の会話のやりとりです。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」。

同じように十字架につけられながら、イエスと二人の盗賊の間には、その生きてきた歴史にかなりの違いがあります。でも、生きてきた世界は同じです。つまり、片やイエスの方は周りの人々を元気づけ、喜びと安心・平和をもたらす方、片や盗賊は人々の平和を乱し、幸せを破壊してきたのです。いわば彼らはエゴイズムの欲望のかたまりでしかありませんでした。これに比べイエスは、喜びの使者であり、愛そのものです。

まったく別の歩み、生き方をしてきた三人が十字架上で出会いました。また、この十字架そのものも、三人にとって意味合いが違っていました。盗賊にとって十字架は、犯した悪事の刑罰であり、絶望でした。イエスにとっては救い、罪のゆるしを与える愛の溢れでした。

ひとりはイエスを拒み、もう一人は神を賛美して

イエスの最後の瞬間においても、イエスを受け入れる人と拒む人が存在しているのです。すなわち、イエスを挟んで二つの十字架観が対置されています。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエスを拒否する人たち。「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した」とイエスを受け入れる人たち。つまり、十字架から降りてこないからこそイエスはメシアではないという人たち。また、十字架から降りてこないからこそメシアであると信じる人たちです。この二つの十字架観のどちらを選ぶか、今のわたしたちにもその選択を迫られているのではないですか。

最期の瞬間に、イエスは長年かけて追及してきた罪びととの出会い、そしてその罪びとを取り戻すことを実現なさったのです。そして、イエスはその生涯の終わりを飾りました。イエスの使命(メシア)にふさわしい最高の場となったのです。

今「わたし」の目の前にある十字架、それは絶望か希望か。北朝鮮拉致事件は「絶望」を感じさせますが、「希望」の光は輝かないのか。

隙間がある限り、神の恵みは必ず、しかも、静かに、いつの間にか差し込んできます。

 

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