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王であるキリスト:イエスは人の罪を背負い、神と人の繋がりを修復する

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23・35~43

2019年11月24日

教皇フランシスコのメッセージから

「イエスは地上での宣教を引き継ぐ務めを弟子たちに委ねただけでなく、貧しい人に希望をもたらすことを求めていて、『わたしたちの告知と、キリスト者としてのあかしの信ぴょう性は、まさにそのことにかかっているのです』と教皇は『貧しい人のための世界祈願日』のメッセージで説明しています」。(カトリック新聞2019年11月17 日、第4507号)

「このことを逃れることは、福音を欺くこと、啓示を弱めることです」と教皇は続けます。そして、この世界祈願日は、キリスト信者と善意の人々に、「親しみも連帯も奪われていると思う人がだれ一人いなくなるよう」共に力を合わせて働くよう促す目的がある、と教皇はメッセージの中で説明しています。「貧しい人のための世界祈願日」は先週の日曜日でした。

「いのち」の大切さをあらためて問う

近代社会は科学の発展により、身体や精神の仕組みを解明しつつあります。しかし、その発展の速さと見事さの陰で、こうした発展に反比例するかのように、わたしたちは人間の「いのち」の大切さ、尊さを見失って来たのではないでしょうか。そこで、フランシスコ教皇は、わたしたちが「いのち」によって、他者や自然とつながり、神とつながっていることを、あらためて、わたしたちに思い起こさせようとしているようです。そこには、富豪、極貧、地位の上下は何の関係もないのです。一人ひとりの「いのち」を大切にすることの上にだけ、進歩、発展の信ぴょう性が高まってきます。人間の命を奪うのであれば、その進歩はどう評価されるでしょうか。

「出向いていく教会」が意味するもの

いのちとの関わりの中で、今一つ気になる教皇の指摘があります。それは「出向いていく教会」という呼びかけです。「出向く」先には、人々の成長の場があり、対話、宣教、愛の実践の場があります。また、お金持ちの人がいれば、病者や貧しい人もいます。何らかの理由で教会に来られなくなっている人もいます。或いは、教会に行く意味を失くした人だっていることでしょう。もっとも、教会の存在、イエスの存在そのものを全く知らない人も数多くいます。こうした人々に、教皇は「イエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう」と、わたしたちを促しておられます。

わたしたちがキリスト者としても、そうでなくても、生きている限り、わたしたちの周りにいるすべての人の「いのち」につながり、それは、お互い尊敬の念を抱き、払いつつ、金持ちも貧者も、上司も部下もないのです。希望をもたらす(宣教)ために出向くのです。

王であるキリスト:イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
王であるキリスト(C年)の福音=ルカ23・35~43 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

イエスの周りにいる人々はどうでしょうか。当然のことながら、いろいろな人がいます。特に目立つのが、当時の上流(指導者)階級と社会の底辺にいる人びとです。中でも、上流階級の人々は、ことごとにイエスに反対します。

イエスは罪びとの救済に生涯をかけた

イエスが生涯かけて実現しようとされたこと、それは、罪びととの出会いであり、彼らを取り戻すことでした。この意味からしますと、当時の指導者階級にあたるファリサイ派、律法学士などは、その最たる対象者だったのかもしれません。悲しいかな、その彼らが、イエスを十字架に送り出してしまったのでした。今日の福音は、イエスの生涯が、どのようなものであったのかを示しているのではないかと思うんです。

救いのチャンスを逃す人、生かす人

つまり、今日の福音書では、二人の男たちが登場しますが、イエスに味方するひとりと、反対するひとりです。まさに、イエスがそのいのちを終えようとする瞬間においてさえ、自分に味方する人、そうでない人が、イエスの周りにいるということです。イエスの生涯は、こうした人間模様で織りなされていたのです。

「お前はメシアではないか。自分と俺たちを救ってみろ」。イエスに悪口を浴びせる男は、イエスに反対してきたファリザイ派、律法学士、長老たちの側に属する人でしょう。自らの生きてきた歩みに反省がないように見えます。せっかくの救いのチャンスを、みすみす逃してしまう生き方で、その人生を終えようとしています。

自分の過ちに気づき目覚めることで…

「お前は同じ刑罰を受けていながら、未だ神を畏れないのか。・・この方は何も悪いことをなさってはいない」「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」。こう叫ぶ男は、酒飲み、取税人、遊女とよばれながらも、そのへりくだりゆえにイエスの優しさ、愛につつまれた人々の側に属する人でしょう。自らの罪を認め、イエスへの心の扉を開かせていただいたのです。自分の醜さ、汚れに目覚めることがあればいいのです。あとはイエスが引き受けてくれます。「今日、あなたはわたしたとともに楽園にいる」と。

昔から「天国どろぼう」の話として、今日の福音書は呼ばれてきました。「どろぼう」は決してやってはいけないことですが、「天国どろぼう」だけはやっていいのでしょうかね。でも、それだけ人間にとって「ほしいもの」であるということの裏返しではないんでしょうか。そして、そのことが、「いのち」を通して、神とわたしたちとのつながりの証しとなっていることを示しています。

わたしたちは誰をしても、自らの過去の過ちをなきものにしようとして、過去を塗り替えることはできません。人にとって、唯一救いの道は「ゆるし」です。その「ゆるし」をくださるのがイエスです。わたしたちの過ちを背負い、罪の責任を背負ってくださるのです。イエスの贖いの、目に見える実りが、今日の「天国どろぼう」の話と言えます。

わたしたちも、日常、イエスと出会いましょう。自らの過ちに気づき、「目覚める」ことで・・。

【11月24日】王であるキリスト(C年)の聖書はこちら

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