年間第33主日(C年)の福音=ルカ21・5~19
2022年11月13日
人間にはあらゆる欲があり影響は果てしない
人類が住み続けているこの地球では、多くの民族がそれぞれの場所で、命の喜びを享受しています。ところがその一方で、諸民族間の根深い対立、紛争、それらから発生する虐殺、難民、また、身近なところでは親子の断絶、分裂等、悲惨な出来事も絶えることがありません。どうしてなんですかね。わたしたち一人ひとりがそのことに気づいて目覚めれば、平穏な安定した平和な日々を構築していけるのでしょうが、・・。ここでも、人間の「欲」があらぬ方向に「わたし」を引きずり込んでしまっているのでしょうね。
誰も好んで、国と国の間に、民族間に、身近なところでは友人間に、また親子間に諍い、争いを起こす人はいないでしょう。ただ、普通に自己主張しているその先にもたらされているのでしょうね。どうしても個人的なかかわりの際には「わがまま」が出てしまうのでしょうか。そして、その「わがまま」が、国の権力者の場合だと、さらにエスカレートして、他国へ干渉することになってしまう時、それが「争い」が起こる発端となり得ます。それこそ「戦争」「大戦」になってしまいます。
スポーツにおける「欲と競い」は清々しく
スポーツの世界で、「競う」ということにおいて、必ず順位がつきますので勝者がいれば敗者が出ます。やはり、いつもより高いところを目指し、最後は「勝つ」ことに情熱を燃やします。その欲があるからこそスポーツ界全体の発展があるし、個人的にも、技術的、精神的両面において大きな飛躍を期待できるし、実際そうなっていきます。それまでの選手本人の苦労は並々ならぬものがあるでしょう。多くの苦しみを経ての頂です。でも、その苦しみは「明るい苦しみ(?)」です。頂点を極めようという希望に満ちた心からの充実があるからです。
還暦スタイリストから「新しい私」の提案
一方「贅沢な苦しみ」かもしれませんが、スタイリストの地曳いく子さんの情報が掲載されていました。(南日本新聞2022年11月8日朝刊)
「ババア上等!番外編 地曳いく子のお悩み相談室」(集英社文庫)を出版したという話です。相談者はある程度年齢を重ねたミドルエージがほとんどだそうです。その中身と言えば、「何を着てもどこかおかしい、似合わない!」「白髪染めはしたくないけど、グレーヘアにする勇気もない」などの悩みです。なんと「贅沢な悩み」だ、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。そんな悩める人に地曳さんが繰り返し説くのは、「時代も自分も変わってしまったことを直視する姿勢」です。というのは「これさえあれば、というルールやアイテムが消えてしまった今は、武士が刀を取り上げられた明治維新ぐらいの変動期。そんな時代だからこそ『新しい私』に合うものを探せばいいんです」と地曳さんは言われます。
そして、地曳さんも還暦を超えた今、自身が格好良い「ババア」のモデルになろうと突き進まれるそうです。最後に言われます。「何が好きかわからない人も、何が嫌いなのかはわかると思う。物でも人でも、まず苦手なところを遠ざけることから始めてはどうでしょうか」と「『新しい私に』合うものを」呼び掛けています。
わたしたち一人ひとりは、それぞれに悩み、苦しみを抱えて生きています。程度の差こそあれ、「苦しみ」を体験しない人はいないでしょう。歴史を遡っても、同じようなことを当時の人々も体験しています。
イエス「惑わされないように気をつけなさい」
イエス時代のユダヤの人々は、「神殿が壊される日が来る」ということになれば、一大事件なのです。彼らは、エルサレム神殿こそが、神がとこしえに住まうところと考えていたからです。だから、今日の福音書でイエスからそのような話を聞くと、その「徴」を尋ねます。イエスの答えは「惑わされないように気をつけなさい」という注意で始まります。つまり、キリストを信じる者の特徴は「惑わされない」ことにあるのです。だから、どのようなうわさを聞いても、それらは起こるに決まっている、それは、神の計画に従った出来事だからです。神の目的は人類の救いにあります。
イエスによると、神を信じる人にとって、どのようなことが起こっても惑わされることはないのです、ということになります。だから、偽キリスト者が登場しても、「戦争とか暴動のことを聞いても」惑わされることはないのだと。それは単に「始まり」に過ぎないのだからとイエスは言われます。人間にとって絶望と思わせる現実こそが、イエスを証しするというわたしたちの使命を果たすいい機会になると。
信仰は日々の鍛錬を重ねながら成長するもの
別の言い方をすれば、キリスト者といえども歴史の現実から逃れることはできないのです。豊かな信仰の恵みに包まれているとしても、苦しみと悲しみのない楽園を保証してはくれないのです。
「地曳いく子のお悩み相談室」でのすすめの言葉のように、どうにか気持ちの方向を転換することはできても、苦しさ、辛さはまた舞い戻ってきます。
イエス自身も、歴史の中で、その生き方そのものが、その時の為政者、人々からの影響に翻弄され、挙句の果てに十字架刑で一生を終えます。周りの人にボロボロにされながらも、ご自分の使命を全うされました。イエスの弟子たちもそうでした。
それに続く今のわたしたちはどうでしょう。信仰のために迫害されること、今はないかもしれません。が、日常、信仰者であるがゆえに、窮屈さとともに苦しさを感じることはあるかもしれません。イエスは言われます。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」のです。つまり、その時こそ、神は「あなた」のもとに留まっているのです、と言われます。この実感を味わってみましょう。
日々、このような信仰体験を積み重ねることによって、わたしたちの信仰は鍛錬を重ね、より本物に近い、イエスの思いに近く高められていきます。
信仰は日々成長するのです。
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