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主の公現:真の救いへのあこがれ、渇きがこの「わたし」にあるのだろうか

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主の公現(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

主の公現(C年)の聖書=マタイ2・1~12

2022年1月2日

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(マタイ11章25節)。

「東方からの来た占星術の学者」とはマジシャン

ご公現の祝日です。“エピファニア”、これは神が現れたということを意味することばです。わたしたち人間の「主」として現れたということを祝うのです。現実的に、「わたしたち」といっても、その生き方は様々です。ごく一般的な言い方をしますと、比較的恵まれている人、そうでない人のグループに分けられるのではないでしょうか。

今日の福音書に出てくる「東方からの訪問者」は、どのタイプの人たちでしょう。長い間、ヨーロッパの伝統では、三大陸を代表する「王たち」と言われていました。その王たちが、王の王であるイエスの前にひれ伏すためにやってきたのです。というふうに解釈されていたのです。したがって、伝統的なクリスマスの飾りものの中に、冠をかぶった三人の王たちの姿があります。今日の公現の日に飾られていました。

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しかし、聖書の原文では王でもなく、学者でもないマギ、つまりマジシャンと書き記されているのです。それもそのはず、後にイエスはおっしゃっています。その言葉が文頭に記したイエスのみ言葉です。つまり、救い主の下に最初に招かれたのは、当時はユダヤ社会の中で、小さき者たち、世の人々からさげすまれていた人々、それゆえに、いちばん軽蔑され、暗闇の中に生きている人々、白い目で見られ、本当の光を見たことのない人々だったのです。人生のハンディを背負いながら、社会の底辺で喘ぎながらも精一杯生きている人々だったのです。このような人々こそ、本当の救いを希求しているのではないですか、と訴えられているようです。そういう彼らに向かって、神は星をおくられたのです。人びとはその星の光に自らをゆだねたのです。そして、「救い」への旅立ちが始まりました。

貧しくさせらた人々へのメッセージ読み取りたい

イエスの誕生を契機に、いろんな悲しい、惨いできごとも起こっています。先ずはヘロデです。王の王を拝みに来たという東方の三人の訪問者に騙されたことに気づき、怒り心頭です。その結果、暗く悲しい、そして、むごい話が続きます。

一つは幼子たちへの虐殺です。その母親たちの嘆き悲しみはいかほどでしょうか。しかも、目の前で虐殺されたとなると、気が狂いそうになってもおかしくはないでしょう。さらに、聖家族のエジプトへの避難という、辛い出来事が続くのです。

イエスの誕生は、その始まりから大きなメッセージを含んでいるように思えます。つまり、貧しさ、それも貧しくさせられている人々への温かいメッセージです。それは、人々から貧しくされているとしても、神は見捨てることは決してありませんよ、という裏切らない神の心、思いをイエスの誕生に込めているのでしょう。だから、貧しく生まれたのです。貧しい羊飼いの人たちに最初のよろこびの知らせを告げたのです。そして、当時のユダヤ人たちから忌み嫌われていたマジシャンたちが、しかも東方から招かれたのです。というより、星の光を通して神が導かれたのです。

さらに、イエスのこれから先の道のりが示されているようです。神の思いとは裏腹に、人々からは、なかなか受け入れてもらえないイエスのこれからの人生の道のりが、誕生とその周辺の出来事にあらわれているといえないでしょうか。人々に拒否されて続けても、それでも、神は最後までイエスにその道を歩むように促されたのです。

光り輝く星に照らされた「わたし」の道を求めて

その結果、幼子イエスに出会ってその生き方を変えようとしたマジシャンたちのように、マジシャンたちが他の道を通って帰国したということは、イエスに出会った実りとしての生き方の転換であったといえます。今でもそうです。特に、貧しい人たち、社会から排斥され軽視されている人々にとって、イエスは生きる道しるべとなっていったのです。でも、実感としてそういうことが感じられているでしょうか。イエスを、求めているでしょうか。必死さがあるのでしょうか。

どん底の闇の中からの叫びを神が顧みられること、これが今日の福音のわたしたちへの訴えではないでしょうか。あらためて思います。救い主としてのイエスのもとへ最初に招かれた人々は、人間の、社会の闇の中に生きている人々であったということです。

今のわたしたちも、重荷と労苦を背負って歩み続けています。そのわたしたちに光と力と、慰めと希望を与えようとする救い主・イエス、その初穂が東方からの訪問者でした。金持ちであろうがなかろうが、そのことよりも、救いに飢え乾いているのかどうか、この事が問われ続けられます。彼らには求める心があって、大きく光る星に導かれたのです。

真の救いへのあこがれ、渇きは、この「わたし」にある、ない?

 

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