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年間第18主日:人生の旅路の先に待っている温かい父なる神

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年間第18主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第18主日(C年)の説教=ルカ12・13~21

2022年7月31日

「金(かね)」に関係する故事・ことわざがたくさんあります。「地獄の沙汰も金次第」というものがあれば、「辛抱する木に金が生る」というものと様々です。

世の中すべて 金次第という諺もあるが…

 因みに前者は、ご存知のことですが、次のようです。世の中のことは金さえ積めば望みとおりになる、と。つまり、地獄の裁きでさえ、金をつかませれば有利な判決が下るというので、ましてこの世の中は銭金でいかようにもできるということです。また、後者は、あきらめないで最後までやり抜くことが大切である、と。すなわち、危険や苦痛をものともせずに、全力で物事をやり抜く決意を表わしています。(「故事・ことわざ辞典」新星出版社)

人にはそれぞれに「欲」があります。これにより、わたしたちの日常で、よくもめごとになる一つに、遺産相続問題があります。それこそ、血を分けた兄弟姉妹並びに親族が入り、醜い争いを繰り広げるのです。高貴な家系家族の遺産をめぐって、という設定で、テレビドラマにもなりそうなテーマです。富への執着はわたしたち人間にとって、確かな魅力になっているのは事実です。その魅力のあまり、のどから手が出るほどに人が求めてやまないほどなのです。この欲はいつの時代にも変わりなく、人の内側からほとばしり出ます。人間本性から出てくるものだからでしょう。

たしかに富や財産は、わたしたちが人間としてより快適に生きていくためには、大きな力になっています。それがあるか否かによって、人生がプラスにマイナスに大きく揺れます。なければ無いでどうにかなるさとは言っても、惨めな思いを抱えて日々を過ごすことになります。

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ところが富があると、先ず気持ちが落ち着きます。生活の安定性から新たな希望が、可能性が見えてきます。すると、黙っていても友が寄ってきます。そして、周りの人々から認めてもらうほどの地位を確保できるようになります。要するに、金の魅力に皆が磁石にひきつけられるように金の周りに寄って来るのです。挙句の果てには、体よくおだてられ、丁重にもてなされるようになっていきます。そして、その気になって人生の表面をきれいに飾り、自分の持っている醜さや愚かさを、富の力で覆い隠し、見た目には立派な人間を演じるようになっていきやすくなります。

旧約聖書・シラ書にも出てくる”金持ち”

こうした状況は、昔も今も変わることがありません。イエス時代の以前から似たようなことは存在していました。

「金持ちがよろめくと、友人が支えてくれる。 身分の卑しい人が倒れると、 友人でさえ突き放す。金持ちがしくじると、多くの人が助けてくれ、 言語道断なことを口にしても、かばってくれる。 身分の卑しい者がしくじると、人々は非難し、 道理に合ったことを話しても、相手にしない。金持ちが話すと、皆静かになり、 その話したことを雲の上まで持ち上げる。 貧乏な人が話すと、『こいつは何者だ』と言い、 彼がつまずけば、これ幸いと引き倒す。」(シラ書13章21~23節)

とあるように、金持ちはおだてられ、丁重にもてなされるのです。

死後、財産を持っていくことはできない

一方で、人間が本質的に持っているその有限性、病、老い、死は例外なくすべての人間が体験することであり、逃れることができません。すべての人に、金持ちにも貧乏人にも等しく公平に訪れる確かな道のりです。中には、なるほど重篤な病に罹ったことのない人はいるでしょうが、死は避けることはできません。繰り返しますが、万人に公平に、共通に襲ってきます。どんなに有名人であろうと、科学者であろうと、極貧の生活を余儀なくされた人であろうと、金持ちであろうと例外なく訪れるのです。科学・医学の発展成果がどんなに優れていようと、人が死を避ける力を獲得することはできないのです。

金持ちがその人生の過程で得た富、資産はこの世に残していくことになります。手元に携えて持参することはできません。手ぶらで、裸で神の前に立つことになります。同じくシラ書に言われています。「生活を切り詰め、強欲に富を蓄える人もいる。 だが、どんな報いがあると言うのか。『これで安心だ。 自分の財産で食っていけるぞ』と言っても、 それがいつまで続くのか知るよしもなく、 財産を他人に残して、死んでいく。」(シラ書11章18~19節)と。言うまでもないことですが、この世における社会的地位も名声も神のみ前では何の役にも立たないのです。

こころの中に”神の居場所”を用意すべき

さらに、(今週の福音=ルカ12・13~21)17節から19節の金持ちの言葉、動詞はすべて、ギリシャ語原文では、一人称になっているのだそうです。「わたしの収穫」「わたしの倉」「わたしの穀物や財産」「わたしの魂」というふうに、金持ちの関心は他者に向けられているのではなく、いつも自分自身なのです。また、金持ちは自分の力によって「命」を獲得しようとし、獲得した「命」は自分のためだけに使おうとしているというのです。このような人をイエスは「愚か者」と呼びます。それは、財産を死によって没収されることを知らずに、安易な将来を夢見て有頂天になっているからです。別の言い方をしますと、彼の心には「わたし」しかなく、彼の中に、神の居場所がまったく用意されていないからです。

人生の旅路のゴールには神が待っておられます。見てそれを分かることはできなくても、人生は神との出会いのための準備の旅路であるという意識と自覚があることを、芽生えることを祈りたいですね。願いたいですね。

父なる神は、穏やかな笑みを浮かべ、わたしたち一人ひとりを出迎えてくれます。

 

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