年間第18主日:神を信じる道は、既に自分の命の苗床に植えられている

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第18主日(B年)の説教=ヨハネ6・24~35

2018年8月5日

敗戦後、私学では宗教教育が可能になったが

日本の公私立学校では明治時代から宗教教育が禁止されていたということです。それは1899年(明治32年)の文部省訓令12号に示されています。(「宗教の教科書12週」菅原伸郎著)敗戦後は私立学校では可能になりましたが、公立学校では認められてはいないようです。しかし、かなりの部分で教えられるようになったのではないかと著者は言います。

文部省や学校現場は宗教教育に逃げ腰だった

ただし、文部省(今の文部科学省)や学校現場は宗教に逃げ腰だったというのです。さらに、「保守政治家は『即効性のない宗教教育より、道徳教育で愛国心や公徳心を教えたほうが早い』と考えてきた。革新側の教師たちも、おそらくは「宗教はアヘンなり」などと考えて消極的だった。そうした左右両陣営の姿勢が教育界全体にあって、学校から宗教を遠ざけてきたのである。つまり宗教についての無知・無関心が背景にあるからであり、法律の不備で宗教が教えられなかったわけではない」と菅原氏は指摘しています。

理由は保守も革新もそれぞれ、宗教に無知・無関心

菅原氏の「即効性のない宗教教育」「宗教についての無知・無関心」というご指摘に、なるほどなぁと感じるところがあります。

人の独り立ちの根底にあるのは「宗教」

全くの私見です。「即効性のない」が故に、時間をかけて会得したものが、その人の本物になっていくのではないんでしょうか。子育て、教育というものは派手に、表立って中身が見えるものではないでしょう。だからこそ、すべての親が苦労するのです。一人の人間の独り立ちだからこそままならないのです。「独り立ち」の根底にあるのが、「宗教」なのではないかと、わたしは強く思っております。その人の品性の原点に備わっているものであり、人の「育ち」の過程で、周囲の交わりとの絆(関り)を通して、さらに深く根付いていくものではないかと考えております。

その人らしさが育つきっかけは親と家族

「したがって、その人らしさが育つきっかけは、先ずは、親であり、家族です。学校現場ではないのです。「講義」という場を経て育ち、培われるのではなく、親の「生きざま」の後ろ姿が語りかけるのです。」

こうした家庭で築かれた人生の苗床に、より豊かに、さらに大きく盤石な人間性に花を咲かせるために、より広い家庭・学校現場(社会共同体)に身を置くのです。

宗教への無知・無関心は生き方に影響する

「宗教についての無知・無関心」は、その人の生き方に影響してくるのではないでしょうか。同時に、その方の周りに住む方々も、当然のことながら、その影響を受けてしまいます。「無知・無関心」だからこそ、多くの人は、誰かの仕草、配慮された作法に気付くことなく、その方の作法を外的に「真似する」ことで終わってしまっているような気がします。人として、自分の中にも、その方と、その実、共鳴、共有できるものがあるのに、いつも「自分流」で終始しているのです。

年間第18主日:神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである
年間第18主日(B年)の聖書=ヨハネ6・24~35 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

きょうの福音では、「即効性」を期待し、「自分流」の世界に閉じこもっているユダヤ人が、イエスさまの真意にたどりつかないお話です。その中心にある話題は「ご聖体」です。はじめに、パンの奇跡を目の当たりにした民衆は、イエスさまを王にかつぎ上げようとします。イエスさまはその場を去り、山に退かれます。さらに、「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」とイエスさまが言われると、民衆は、彼らがイエスさまを信じるための何か「しるし」を要求して、いいがかりをつけるのです。そして「わたしが命のパンである」といわれると、不平を言って、イエスさまのもとを去る人が出てきます。

ユダヤ人たちも、即物的なしるしを求めた

最後は、多くの人びとが散っていき、残ったのは12使徒だけになってしまいます。最初は、すべての人々がイエスさまの言動に感動し、大歓迎します。ところが、イエスさまとの関係がぎくしゃくしてきますと、一人去りまた一人去りと、人の輪が小さくなっていきます。それでも、イエスさまは話をお止めになりません。民衆が分かろうがわかるまいが関係なく、ひたすら前に話を進めていかれます。

理解されなくても、イエスは話を進めた

これは、ユダヤ人の信仰と、イエスさまがあらたに開こうとしている信仰との対立といえないでしょうか。イエスさまが天から降ってきた、ということを認めることができないのです。マリアの子で、大工の子ではないかという現実を超えることができないのです。それでも、ご自分が発言なさった言葉を撤回することはなさいません。訂正して言い換えることもなさいません。

別の言い方をしますと、この教えがいかに重要であるのかということをおっしゃりたかったのです。わたしたちの立場からしますと、「ご聖体」の秘跡は大事になされなくてはいけない信仰なのだということです。だから、頻繁にあずかるようにと勧められているのです。

「関心がある」ということは、一歩先に歩を進めるモティベーションになるのです。わけのわからぬことを言っている、じゃなくて、理屈にあわないからどうでもいいのではなく、仮にそう思っても、現実は目の前にあるのです。それが人の命であり、信仰の世界ではないんでしょうか。

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