『四旬節第5主日』の聖書と説教はこちら

洗礼者聖ヨハネの誕生:ヨハネは「前相撲」の大切さを伝えている

この記事は約4分で読めます。
「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

洗礼者聖ヨハネの誕生の説教=ルカ1・57~66、80

2018年6月24日

「実に、キリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、数々の規定を伴う掟から成る律法を無効にし、二つのものをご自分に結び付けることによって、一人の新しい人に造り上げ、平和を実現されました。すなわち、キリストは十字架によって、互いに離れていた二つのものを一つの体とし、神と和解させてくださいました。ご自身において敵意を根絶させられたのです。」 (使徒パウロのエフェゾの人々への手紙2章14節~16節)

フランシスコ教皇のことばから

わたしたちがイエスさまとつながるということは、パウロが言っている「平和」の実現をもたらしたイエスさまの役割の任を、共に担うことであるといえないでしょうか。フランシスコ教皇は言っています。「わたしたちは平和の人であるべきで、聖霊によって与えられた平和を言葉で台無しにしてはいけません」と。(カトリック新聞2018年6月17日)

平和のたまものは、つまらない陰口や他人の悪口で簡単にこわれてしまうと教皇は警鐘を鳴らしています。「陰口は聖霊のわざでもなく教会の一致のわざでもありません。陰口は神のわざを損ないます。お願いします。陰口はやめましょう」と呼び掛けています。

教会は『わたしたちみんな』です

そして、フランシスコ教皇は続けます。「教会には偉い人たち、教皇や司教、司祭がいて、それにその他の大勢の働き手がいるのだと考える人がいるかもしれません。そうではありません。教会はわたしたち全員です。それでわたしたちみんなに、互いを聖化し合い、仕え合う責任があるのです。教会は『わたしたちみんな』です。一人ひとりに教会内での務めがありますが、わたしたちみんなが教会なのです。」

陰口、悪口は聖霊の賜物を壊してしまう

わたしたちの今の日常生活で、明らかに「陰口をたたき、悪口を言っている」という意識があるでしょうか。「分からないな」というのであれば、わからないほどに「自分の口癖」になっているのでしょうか。人は、はっきりと陰口をたたくという意識はなくても、相手を傷つけてしまうようなことは、どこかでしでかしてしまいます。悪意はないんですが、一般に言う、「空気がよめない時」があるのです。ず~っと後になって気づかされるのです。

とは言いましても、少なくとも、ワザと陰口は言わないようにしましょうというのが教皇様の促しです。どうして? それは、「聖霊のたまものを壊す」からです。福音を伝えることを破壊してしまいます。「申し訳ない」という心がある限り、賜物を大事にすることは維持されます。

洗礼者ヨハネは「平和への案内人」

今日は洗礼者ヨハネの誕生を祝う日です。彼は、まさに「平和への案内人」ということができるでしょう。彼は、また、預言者イザヤによって「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3章3節)と言われていた人であります。つまり、イエスさまの先駆者として、平和であるイエスさまのもとへ、わたしたちを導くべく、この世に生まれ出てきたのです。

404 NOT FOUND | 教会のITサポート:826村
826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

「女から生まれた者の中で、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」(マタイ11章11節)とイエスさまはヨハネの偉大さに太鼓判を押しています。その偉大さの根拠は、「荒れ野に叫び声」として自ら手本を示しながら、人々に痛悔と償いを勧めて、イエス・キリストへの信仰の道を開いたことです。そして、神からの命令により、ヨルダン川一帯を巡回して、人々に回心を勧めたのです。それによって、ユダヤの全地方およびエルサレムの人まで、彼のもとにおもむき、自分の罪を告白して、ヨルダン川にて彼から洗礼を受けていたのです。

「私より力のある方が、後からおいでになる」

ヨハネの清い生活と熱烈な言葉の調子から、人々は彼こそ久しく待ちわびていた救い主 (メシア)ではないかと思ったのです。そのような人々に対してヨハネは答えます。「わたしよりも力のある方が、あとからおいでになる。わたしは身をかがめて、その方の履き物の紐を解く値打ちさえもない。わたしは水であなた方に洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」(マルコ1章6節~8節)「あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3章30節)と。

イエスのために道を開き、前座に徹した

すなわち、ヨハネの念願は、キリストのために道を開きながら、そのみ前に自らを消滅させることだったということができます。あくまでも、イエスさまの前座をつとめることに、ひたすら徹したといえます。

現代に生きるわたしたちにとって、他者に生きることが、とどのつまり、自分のためになっていくということをかみしめたいものです。いまの時代だからこそ、求められている生き方のような気がします。福音(平和のメッセージ)は黙っていても他者に伝わっていきません。「伝える人」が大事です。洗礼者ヨハネの生き方は、今の時代に、どのように響きわたるのでしょうか。特に、信仰者である「わたし」にとって、・・。

コメント

タイトルとURLをコピーしました