「神への道標」
2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第19主日(B年)の説教=ヨハネ6・41~51

2018年8月12日

みなさん、「自分はどうして今、ここにいるのだろう」と思ったことはありませんか。「なんで、こんなことをしているのだろう」とか「自分がしたかったことは別のことだった」とか思って、自分に問うてみたくなる時がありませんか。

思い通りにならないことは多々ある

そして、その答えは、今の置かれている自分を肯定しているのです。仮に満足感がなかったとしても。ほとんどの人が、自分の思い通りの人生の歩みを刻んでいるわけではないんじゃないかと思うんですが、・・。そう、これが普通のことではあるのでしょうが、というより、これが現実です。

自分の「思いのままに」ならないことは、日常のいたるところに横たわっています。植田まさしさんの、4コマ漫画「コボちゃん」(讀賣新聞大阪本社、2018年8月7日朝刊)に、次のような内容が紹介されています。

新聞の4コマ漫画で見る親子の模様でも

夏休みに入っているコボちゃん。お母さんから買い物の手伝を頼まれます。「いいよ」と返事をします。買い物の内容をお母さんがメモに列挙し始めました。そこに、おばあちゃんがやって来ます。お母さんが「しょうゆはまだあったわね」と独り言のように言うと、おばあちゃんが横から「まだあると思っていると あっというまになくなるから」と提言。すかさずコボちゃん「夏休みもだ、宿題やろ」と机に向かうのです。結局、お母さんの心積りはここで実現されないままに、自らが行く羽目になってしまいました。植田まさしさんが描いた、その時のおばあちゃんとお母さんの表情は、「ホトホト参った」という情けない顔になっているようです。コボちゃんは教科の点数は良くないとはいうものの、鋭い感性の頭脳(?)をしているのではないかという設定を感じます。

自分の「心の在り方」こそが人生を左右

人生という大掛かりな舞台の上でなくても、日常の何気ない普段の生活の中で、自分の意のままにならないことは数えきれないほどたくさんです。「情けは人の為ならず」といいます。この心が大事なのではないでしょうか。つまり、人に情けをかければ、それがめぐりめぐって自分にもよい報いとなって返ってくるものだという意味で、人に情け深く親切にせよという教えのようです。

すなはち、自分の「心のあり方」が、相手の方との出会いの真価を左右していく要になっているのではないでしょうか。コボちゃんは子どもゆえに、周囲への配慮が十分にできない反面、お母さんは子どもの言動を予測できなかったのです。コボちゃんは、いったん買い物のお手伝いをしますといい返事をしたものの、内心では、できればそれを拒否したい気持ちがあったのでしょうか、おばあちゃんの一言が、コボちゃんにとっては手伝いを回避するための「助け舟」になったのでした。子どもは、こうした日常の親子の会話、ふれあいを通して人生の知恵をつけ、逞しくなっていきます。当然、「心のあり方」も育まれていくのです。

今日の福音書をじっくりと味わってみましょう。そこには、イエスさまとの出会いが信じるに足るものになるのか、ならないかは「心のあり方」に負うところが大きいということが示されているのではないでしょうか。

イエスの言動を理解できない障害は何か?

つまり、逆に言いますと、何が障害となってイエスさまを受け入れることができないのか、ということです。民衆が不平を言ったりするのは、イエスさまの言動が意味することを理解できていないということでしょう。すなわち、自分たちの感覚の世界に当てはまるイエスさまの言葉や行いが見当たらないということです。イエスさまが発する言葉に感動もしますが、戸惑いも見せたりします。

今一つの障害は、人間的な目で外見を見れば、イエスさまは普通の人間です。だからこそ、人の世界ではかることのできない言動は、単に異常に見えるだけです。神の働きかけがあるなんて誰にも分かりませんし、考えも及ばないのでは、・・。

わたしたちの日常生活も同じです。神がわたしたちの背後についてくれているので、今わたしたちは生活できているのです。自分一人で生きているのではないのです。しかし、神の働きかけを感じる時があるでしょうか。分からないほどに、神はそっと、わたしたちに寄り添っているのです。

神の働きかけを感じる「謙虚な心」が必要

「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの所に来ることはできない」のです。わたしたちが、神の静かな、やさしい働きかけに気付くために、つまり、神の引き寄せに応えるためには「心」が求められます。

人としての常識にこだわっている心、しかも、その心に余計な自信があれば、神の呼びかけに目覚めるには邪魔になってしまいます。神からの呼びかけが未知の世界であるからこそ、謙虚さが必要ではないんでしょうか。同時に、「信じること」への渇きがあるでしょうか?

何といっても、「わたし」はここにいるんです。