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年間第19主日:ユダヤ人はイエスのことばを理解できず去った。あなたは?

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年間第19主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第19主日(B年)の説教=ヨハネ6・41~51

2021年8月8日

被害体験をもとに語る、いじめの専門家の話から

「物を隠され、あだ名が小学校は『貧乏神』、中学は『便器』。学校はつらい場所でした」と、全国の中学生に向けて語るのは、評論家の荻上チキさん(40歳)です。(南日本新聞2021年8月3日朝刊)

今は、NPO法人の代表理事をし、いじめの専門家になって多方面のメディアにおいて活躍しています。そして、今の仕事のルーツは小中学校でいじめられたことですと明言されます。彼によると、いろいろ調査してみて、いじめがなぜ起きるのかが分かったというのです。

環境が悪くなるとイライラして攻撃的になる

「意地悪な人が一方的に弱い人をいたぶるのではなく、環境が悪くなるとイライラして攻撃的になる。いじめを減らすには環境を改善する必要がある」と。さらに続けます。「学校はストレスがとても多い空間です。先生が怒鳴らず、分かりやすく面白い授業をすれば、いじめは減ります。休み時間を自由に過ごせるようにするのもいい。調査すると、校則が厳しく、集団指導が強いといじめが多かった。逆に先生がよく話を聞く学校は少ない」と。

さらにチキさんは指摘します。「でも、学校は三権分立が機能しにくい不思議な空間です。先生が『校則』というルールを作り、『指導』という政治を行い、違和感があっても門前払い。立法、行政、司法全部を先生が独占しているのです。学校は社会に向かって育つ準備期間のはずなのに、民主主義的に運営されていない」と、世の中と違う空間であると言われます。

健康的な時間を増やすことを意識して欲しい

それでも最後に、中学生に呼びかけます。「皆さんは生きる価値のある存在で、世の中も生きる価値のある社会になっていく。今、おかしくても変えられます。価値がないなんてことはない。・・・大事なのは、学校や家族と触れ合うとき、自分にとって何が健康で、何が不健康なのか判断することです。健康的な時間を増やすことを意識してほしい。柔軟性が大事で、趣味も、これがだめならこちら、と変更できるといいと思います」と励ましの言葉で結んでいます。

名古屋市教委の「いじめ」対応会見は事務的?

今では大きな社会問題化している「いじめ」。ネットニュース(毎日新聞)によりますと、名古屋市教育委員会の幹部が、市立中学校の1年生だった斎藤華子さん(当時13歳)の自殺(2018年1月)について、3日記者会見をし、謝罪したということです。でも、名古屋市の教育委委員会のトップ鈴木誠二教育長は会見に出席していません。冒頭で大川栄治指導部長らが「おくやみ申し上げる」と頭を下げましたが、謝罪への言及がないことを報道陣に指摘され、藤好三知雄指導室長が「大切な尊い命を守れず申し訳ない気持ち。二度と悲劇が起きないようにしなければいけない」と述べたということです。

この報道文だけを読んだ感じでは、わたしには人間味が感じられないんですが、いかがでしょうか。人の「申し訳なさ」の心が感じられず、なんだか「事務的」に処理されている感じがしてしまいます。

些細なつぶやきが原因で始まり、次第に大問題に

人間の社会で、問題が起こるときって、どちらかといいますと、なんでもない、とても些細な「つぶやき」「ささやき」が原因で始まり、時の経過とともに、次第に大きな問題となっていくような気がしてなりません。先ずは、自分の中で小さな「つぶやき」が始まり、それも場合によっては、茶目っ気たっぷりの冗談風で始まります。それが、何回も度重なりますと、そのつぶやきを受ける側にとっては負担に変わっていきます。そして肥大化していくのです。

一方で、そもそも人の心の中にある「思い」「期待」は、できることならば実現させたい、自分好みのものが多いです。それもいきなり巨大な、広大なものになるのではなく、いろいろな影響を受けて目標が充実し、はっきりしてきて、その実現の時を楽しみにできるようになっていくこともあります。

ユダヤ人はイエスに大きな期待を抱いていたが…

きょうの福音書のユダヤ人は、まさに、その期待が実現するかもしれない真っ只中にいるということができます。イエスが貧しい人への愛を示し、病人をいやし、弱者の側に立ったメッセージを伝えることに、大いなる期待を抱いていたのです。彼らが長い間待っていたメシアのイメージだったのです。

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そういう彼らの期待の中で、イエスは「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6・50-51)と言ってユダヤ人を驚かせました。当然のごとく、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(ヨハネ6・52)と、議論し始めたのです。常識では理解できないところです。

それでもイエスは続けます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ6・53-55)と言って、頑固に引き下がりません。

「つぶやき」がそれだけで終わらないのが人の世

ユダヤ人の期待はもののみごとに外れ、弟子たちのほとんどが理解できず、イエスのもとを去っていきました。彼らの救いは、あくまでもこの世的な外圧からの救いでした。「食べて飲んで」イエスと一致すること、ここに価値があるということをイエスは教えられますが、彼らの受け止めは浅いままで終わりました。

イエスの救いの業は、ユダヤの田舎町に住む、名も知られていない娘、マリアの「なれかし」という受諾から始まりました。その道のりの途中がどうなるかによって、たどり着く結果に大きな違いが生じます。

人はいつも尊い命を生きているからです。冗談が冗談で終わらない、「つぶやき」がつぶやくだけで終わらないのが人の世。一人ひとりがそのことを意識しつつ、・・受けとめあえる仲間を増やしましょう。

 

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