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聖家族:神のみ旨を探しあて、親子の人生をさらに生かし、豊かにする

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聖家族(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

聖家族(B年)の説教=ルカ2・22~40

2020年12月27日

コロナ禍の一年、本年はわが国で自殺者が、いつもより増加したという報道を聞きました。中でも、女性の方の数が増えたといいます。命の尊さはいつの時代にも叫ばれ、誰でもが大事にしてきたことと思います。

カトリック教会でも、子どもたちへの祝福を大事にしています。

また、事実、日本人の慣習の中にも、赤ちゃんが生まれてすぐに、「お宮参り」という大切な行事があります。

日本人が大切にしている「お宮参り」

お宮参りは、「初宮参り」とも呼ばれ、赤ちゃんが生まれて初めて、その土地の守り神である産土神(うぶすながみ)様、あるいは一族の守り神である氏神様にお参りする行事です。また、赤ちゃんの誕生を神様に報告して、その土地や一族の一員となったことを認めてもらい、健康と長寿を祈るために行われます。「お宮参り」をするのは、男児の場合は生後31日目か32日目、女児の場合は生後32日目か33日目と言われてきました。(BabyNETより)

基本的には命を大事にする心を持ち合わせているわたしたちですが、命を絶たなければならないほど、それほどに追いやられてしまう人が絶えないという現実も無視できません。だからこそでしょうか、しばしば「いのち」に関する様々な企画が開催されているようです。

「大切な命を守る」作文コンクール

この度、警察庁主催による「大切な命を守る」全国中学・高校生作文コンクールがありました。(南日本新聞2020年12月18日朝刊)

その中学生の部で、沖永良部島・知名町(鹿児島県)の田皆中学校3年の榮流桜(さかえ るお)さんが、同庁犯罪被害者支援室長賞を受けました。榮さんはいじめられた自身の体験を交え命の大切さを訴えました。作文のタイトルは「人の命に寄り添って」です。

榮さんは小学生の時、同級生から悪口を言われたり、仲間外れにされたりして「死にたい」と思い悩んだそうです。その時、「(榮さんが)世界で一番大切」との両親の言葉に救われたといいます。こうした実体験から、殺人や戦争、テロだけでなく「いじめも人を死に追いやりかねない」と強調しています。悩み苦しむ人がいたら「寄り添って全力で支えてあげたい」とつづっています。

そして、表彰状を受け取った後に語っています。「作文を通じて改めて心の整理ができ、周囲の支えの大切さを感じた。いじめている人や傍観している人に、苦しむ側の気持ちに気づいてほしい」と。

子は「さずかりもの」と言うが・・・

クリスマス後の最初の日曜日、今日は聖家族の祝日です。家族は、そこにおいて、親子、兄弟姉妹同士が安心し、甘え合うことができる共同体仲間です。わたしたち一人ひとりが、社会の中で、より良く生きることを学び合える出発の場でもあります。

聖家族:幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた
聖家族(B年)の福音=ルカ2・22~40 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。

そのような家庭、家族環境であるのですが、どの親御さんもそうかもしれません、いつの間にか、子どもは自分のもの、自分が思うようになるものなんだと思い込んでしまっていないでしょうか。自分の思うように、子どもに期待してどこが悪い、というふうになってしまっていることが多いような気がします。そうした気持ちが先にあるのではなくても、結果としてなってしまっていることが多々あります。そう告白してくださる親御さんがいらっしゃるのも事実です。

しかし、当たり前のこととはいえ、子どもはけっして親のものではありません。子は「さずかりもの」といいますが、親のものとして与えられたという意味でもないでしょう。その前に、神の望み、期待、計画があります。「さずかりもの」とは、神は、親に子どもをゆだねられたという意味ではないんでしょうか。したがって、親には、神のみ旨に沿って子どもを育てる責任がうまれてきます。

とはいっても、いつの間にか自己本位の愛情の中で、子どもに必要以上に愛着してしまうのが、親心でもあるようですね。そして、いつしか子どもなりに自分の人生を歩んでいく瞬間に出くわしたとき、親にとっての辛さを実感するのです。

マリアとヨセフは、幼子を神にささげ

聖家族のマリアとヨセフはどうでしょうか。イエスの中に「子どもなりの人生を歩み始めるとき」の兆しを発見できたのは、「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」(ルカ2章49節)という、イエスが12歳になったときの神殿奉献の時でした。

その前に、マリアとヨセフは、イエスを神にささげる宣言をなさっています。それが今日の福音書の個所です。「それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである」といわれている通りに、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽をいけにえとして捧げたのでした。

わたしたちが「いのち」を大事にする、とはどんなことなんでしょうか。「お宮参りをする」「神にささげる」等の行為は、その時が来たら、子どもが自分たち親元を離れていくであろう痛みを感じながらも、神のみ旨に自分たちの心をあげていく姿なのではないでしょうか。マリアもヨセフも子離れの痛みを感じながら「これらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2章51節)のです。

「人のいのちに寄り添う」とは、その人の本来の人生(神のその人に対する期待)に気づき、理解し、受け止めてあげることにつながりはしないでしょうか。そうすることによって、自分たちの心も広げられ、より深められていくのではないかと、・・。

 

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