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年間第19主日:日常の「わたし」の成長の歩みは、その実、信仰の育ちの歩み

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年間第19主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第19主日(A年)の説教=マタイ14・22~33

2023年8月13日

日本人はだれでも、心の奥に「神志向」がある

わたしが大学生の頃でした。仲間からよく言われたことがあります。「カトリック信者は何かといえばすぐに『信仰』という世界に逃げる。現実に向き合おうとしない」と。よく議論したものです。議論というよりも、半ば「けんか腰」になっていたのかなとも思います。

そういえば、相手は自称「無神論者」の男でしたが、神社の前に来ると手を合わせているんですよ。それで、無神論者ではないんだなと思って聞くと、みなが手を合わせているからしているんだと、何のためらいもなく言ってのけます。「日本人」の宗教感覚、信仰感覚はどのように考えればいいのでしょうか迷ってしまいました。わたし自身も日本人なんですが、・・。

でも考えてみると、人間の心の奥には「神志向」の思いが誰にでもあるんだなと思います。彼はそれに気づいていなくて、意識されていないだけなんでしょう。

今たけなわの夏祭りへの参加は「信仰表現」か

今、日本中では「夏祭り」たけなわといったところでしょうか。宗教行事という場合、何かのお祭りと一緒の感じがします。いや、お祭りが宗教行事なのかなと、単純に考えて、そんな感じがしています。実際はどうなんですかね。確かに「~祭」という名がつけられています。そんな時は、それこそ何の違和感もなしに、どの宗教の信徒でも「お祭り」として参加しますよね。ついでに(?)手を合わせて「祈る」「願う」ことをするのでしょうか。

でも、一般的に「信じていること」を神に示し、見せるとき、「祭り」として表現する、といったほうが正しいのでしょうか。それが個人として行うこともあれば、グループですること、時もあります。しかも、祭りの中身も様々です。本当に楽しさ満載の祭り、喧嘩腰の掛け合いで盛り上がるもの、無病息災を願っていとも静かな行列だけで終わる祭り等、どちらかといえば人間のわびさびを表現しているといえなくもありません。これこそ「わたし流」の考え方にすぎませんが、・・。

外見は多様ながら、そこには祈りの要素が

人の心の喜怒哀楽を、神輿に、人間のパフォーマンスに託して人々の願い、感謝、礼拝をささげることになっているのではないでしょうか。そう考えると、単なる「どんちゃん騒ぎ」で終始するわけにはいかないお祭りになってしまいます。みなさんがその準備段階から一生懸命であられるのも、いわば、「祈り」のうちなのでしょう。

でも、「お祭り」は世の中が、わたしたち一人ひとりが平穏な時にこそ発揮される人々の「信仰表現」といえるかもしれませんが、人世のあらしや試練に会う時にはどれだけの意味があるのでしょうか、と問われれば、信仰はもっと地味で地道なのかもしれませんね。つまりは、日々のわたしたちが生きている瞬間瞬間のちょっとした言動の如何によって培われていくものなのでしょう。

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全ての人が体験しているように、わたしたちが生きている現場は、きれいごとばかりではありません。どろどろとした人間模様でおりなされる幾多の山があり、谷があります。誰にとってもその人生が順調な時ばかりではないでしょう。順調な時は、自分が何を信じているのか確認することはできます。でも、落ち込んだ時はどうでしょう、・・。自分の信じているところにしっかりと立っていることが出来なくなっているのではないですか。そうです。動転して、その内容にもよりますが、慌てふためいてしまっているのがいつものパターンのような気がします、わたしの場合は。これは何度体験し、味わったとしても、苦い、嫌な味わいでしかありません。

ペトロが溺れかかったのは何故?そこにヒント

今日の福音のペトロでさえも混乱してしまい、自分のもろさ、弱さがもろ露見します。こうした体験があっても、人間として、信仰者として、その迷いやすさ、崩れやすさはいつまでもついてまわります。このような自分を見つめつつ、今与えられた環境の中で、自分を神に託していけるのかが問われています。これが「その時」を生きる信仰者の姿です。言い換えるとするなら、その場その場における現実の中で、神の慈しみと恵みの確かさに気づき、そのことを見出すことがあるでしょうか、ということです。そして、そこに我が身を託していけるか、それがしっかりと普段からできていることが、求められているんだということを教えているのが、今日の福音の出来事ではないんでしょうか。

ペトロを筆頭にした弟子たち、当時の姿は、襲いかかってくる嵐の前で慌てふためいて混乱しています。自己中心的でした。というのは、ペトロは、初めは主への信頼の心を表明しています。ところが、嵐の激しさを身に覚えると「我に返って」、身の危険を感じるのです。そこで「主よ助けてください」と叫んでしまいます。主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声を掛けられました。ペトロは「安心して」湖上を歩き始めます。その時のペトロは、全く主に我が身を預けていたのです。ところが、嵐のあまりの強さに(邪念)負けて、人間本来の弱い自分に戻っていたのです。

苦境に立つと信念が揺らぎ、わが身が心配に!

やはり人間は、苦境に立たされると自ずとわが身が心配になり、防御に走ってしまいます。普通の人間です。弟子たちも当時はそのようでした。イエスに身を任している間は安心できる状態にあった「わが身」(ペトロ)も、いったん我に返ると途端に不安になってしまいます。信仰は、本来は不安と恐れから人間を解放し、安らぎと希望のエネルギーを与えてくれるものです。そして、それは、「今」という現実の嵐の中で試され、鍛えられていってゆらぐことのない、安定した希望の「光」となっていきます。

そして、「信仰」は、止まることなく、いつも前に向かって育っていきます。日本のお祭りは、その時々のわたしたちの心の状態を表現しているものかもしれませんね。

信仰の歩みにおいても、一緒に前に進みたいですね。

 

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