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年間第20主日:神との出会いは、闇の中でともる目立たない明かり

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年間第20主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第20主日(A年)の聖書=マタイ15・21~28

2023年8月20日

平和を求めても、現実と理想論はかみ合わず

最近では、何かと不安を煽るような出来事、話題が気になってしまいます。あちらで侵攻が起こり、こちらでは連れ去り、誘拐事件、次から次へと人の命にかかわる報道がつづきます。これまでのように安心して日々を送ることの難しさが、なおのこと、不安を助長させます。

そして我が国日本も、第二次世界大戦の終戦日を迎えました。ここ数日の南日本新聞においては、「語り継ぐ戦争」というコラム記事を連載し、当時は幼かった方々の戦争体験を「証言」として紹介しています。(同紙2023年8月12日朝刊)この時期になると毎年、思い出させてくれます。被災者のみなさん方等しく「戦争はダメ」だということです。

願わくは「戦争の抑止力」のために軍事力を増大させるのではなく、理想を言えば、まだまだ青いなと言われそうですが、専ら「平和主義」を標榜しているのであれば、そのための施策を考えることは幼稚っぽいですか。「平和主義」が単なる呼びかけで終わらないようにしていくことも、もっと大事なのではないでしょうか。何かをやっているのかもしれませんが、わたしたち庶民にはその具体的な中身が見えてこないんです。

「もっと現実的に考えなさいよ」と誰かに言われそうです。当然のことながら、相手がいることなので、相手側の心情は大事です。しかし、それを推し量ることは容易にはできません。とにかく、信頼しあえる関係が構築され、それが強固になっていくことが、安寧社会を作り上げていくことになるのでしょう。口では簡単に言うことができますが、実際の現場ではなかなかですよね。だから理屈ばかり言うな、理想論ばかり言うな、ということになります。でも、そのことを言う人すらいなくなるともっと困るのではないか、・・と。難しい世の中です。

こういう結論に落ち着いて終わるので、動きが発展しないんですね。あったとしても、同じような状況が繰り返されることで終わってしまいます。一人ひとりが目覚めるしか道は開かれないのでしょうか。最終的には、やはり「一人ひとり」の目覚めです。わかってはいるんでしょうが、・・。これまた理想論よ、ということになるのでしょうか。

交通空白地で住民が「自家用有償旅客運送」

ここに、住民の方々がいらっしゃいます。「下甑『あいのり交通』2年」という見出しで、自分たちの力で取り組んでいる事業が紹介されています。この地区は公共交通サービスが十分ではない地域で、自分たちで自分たちの足を守ろうという取り組みです。(南日本新聞2023年8月12日朝刊)

その事業名は「あいのり交通」と命名されています。バスやタクシーのサービスが十分ではない交通空白地で、県に登録して送迎する「自家用有償旅客運送」制度を活用しています。青瀬地区コミュニティ協議会が2021年4月に運営を始めました。普通免許しかない人も、所定の講習を受けると運転手として登録でき、現在は30~70代の12人の運転手がいます。当初は同地区のみの運行でしたが、周辺の要望を受けて下甑全域に広げています。その利用目的はというと、買い物のほか高齢者による通院や墓参りなどの利用が多いといいます。しかし、燃料高騰やエリア拡大に伴う運行回数の増加により、収支は赤字だそうです。それでも青瀬地区の東実会長(73歳)は「利用者の喜びの声を聴くと、始めて良かったと思う。交通弱者の足を守っていくためにも、他の地区にも広がってほしい」と語っています。

因みに、今年の4月には、上甑地区の協議会も同様の送迎を始めたということです。

イエスの時代、異邦人は神から遠ざけられて

イエスの時代の社会にも、何か日の当たらない場で、生き方を強いられている人々がいました。当時としては、ユダヤ人からはまともに相手にされていなかった「異邦人」のみなさんです。

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今日の福音では、イエスでさえ冷たい応対をしている、なんともイエスらしくないな、との感じを抱かれる人がおられるのではないでしょうか。

この時のイエスは、わたしたちの場合で言うならば、なんとも気に食わないことがあって、気持ちのやり場がない状態にあったといえます。その直前まで、ファリサイ派の人々と議論をし、それも意味のない議論で、彼らはイエスを罠にかけようとしていたからです。形式だけにやたらこだわるファリサイ派の彼らに、イエスはイザヤの言葉をぶつけます。「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」と。

形式にこだわる心には、宗教的な情熱は消え失せてしまいます。逆におごりが生まれ、ますます神との関係が希薄になり、なくなっていきます。イエスはイスラエルの世界に、人々の中に、神への燃えるような情熱を見ることが出来なくなっていたのです。切実な救いへの情熱を感じられなくなっていたのです。いうなれば、イスラエルに失望を抱き、やりきれない思いを引きずってイスラエルを出ていったのです。

それでもひたすらに憐れみにすがって叫ぶと

そのイエスの前に母親が現れたのです。その母に向かって言われたイエスの言葉は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。

イエスから突き離されればされるほど、彼女の痛みはよりつのり、絶望感はより深まっていきます。イエスの言葉が冷たいのは、誰がみてもそうです。それでも、母親は声を振り絞って「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と訴えます。自分がイスラエル人ではないことを百も承知したうえで、恵みにあずかるには値しないことも知りつつ叫ぶのでした。何も誇るものも持っていません。ひたすらあわれみに向かって叫ぶのです。

ここにイエスは真の信仰を見出したのです。それはエルサレムには消えてしまったものでした。闇の中に、絶望感の中にも神との出会いはあるのです。それが「信仰」だとイエスは言われます。

あの下甑の青瀬地区の人々も、どうしようもなくなった交通状況のどん底から絞り出された発想でした。それが『あいのり交通』でした。「負」のどん底から、光はだんだん身近に、だんだん大きくなってくるのです。

 

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