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年間第21主日:我々は神から名指しで集められた。各自の応答や如何に?

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年間第21主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第21主日(A年)の説教=マタイ16・13~20

2023年8月27日

”悪くはない”など二重否定は高度な表現法か

以前から不思議に思っていることがあります。日本人はどうして「消去法」「三無運動」等が好きなんだろう、と。これはわたし個人の感じであって、専門的な学問的上の話ではありません。日本語で「~ない」という表現を使って自分の思いを語る場合が、日常の中で、結構あるのではないでしょうか。

さらには、二重否定はとても高度な日本語表現である、ということを聞いたことがあります。ひょっとして、これはどの国の言葉でもいえることなんですかね。意味合いとしては肯定的なものになりますよね。「これは、悪くないということではない」は、「これは、良いことなんです。」ということになります。「良いこと」を強調したいのでしょうね。

二重否定が、いい表現であるからかどうかは分かりませんが、だから、日本人は否定文を好む民族になっていったのかな、・・。そう単純なものではないでしょう。その起こりはわからないとしても、文章に、発想に「否定的」ということばが当てはまるような用法が多いのは事実でしょう。これまた、わたし自身のみの感想かもしれません。

俳句は言うに及ばず、ことばがもつ力は絶大

さて、日本語の妙味を堪能する学習に、「俳句」があります。TBS系のテレビ番組で有名な夏井いつきさんが、四国の松山でのある講演会で語っておられます。それは、言葉の持つ「力」についてです。彼女は俳句を用いて、子どもたちに訴え、伝えたいことがあるといいます。その大要を次に引用してみます。

「交流サイト(SNS)の誹謗中傷などで、若者が自ら命を絶つ事件が繰り返されている。

言葉は心を殺す武器になるが、守るためのプロテクターにもなり得ることを、ちゃんと教えるべきだ。言葉を使いこなす力と技術を子どもが身につけるには、まずは学校教育からだと思う。

俳句は、そのトレーニングのための合理的なアイテム。俳句を使ってさまざまなことを学んでほしい。助詞や動詞、形容詞の細やかなニュアンスを表現し使いこなす。季語と付き合うことで生々しい身体感覚を培う。使い勝手のいい教材だ。

必要なのは好奇心と想像力。好奇心は学ぶ力の一歩になり、ずっと生き続ける。想像力は身体感覚を取り入れるために必要だ。」(南日本新聞2023年8月21日朝刊)

「ことば」が持つ力は、通常はあまり考えられていないのではないでしょうか。多分、意識すらされていないでしょう。単なる伝達手段に過ぎない、くらいの感覚ではないんでしょうか。でも、昔から「ペンの力」はすごいといわれていますよね。何も小説とか論評の雑誌とか、公に本になっているものばかりではなく、わたしたちが普段に取り交わす手紙だって、受けた方を、ひょっとして傷つけているかもしれないことはあり得ます。本人が「傷ついた」ことを口にしない限り、差し出した人にはわからないということです。

聖書にもこれと似たような話が出てきます。したがって、いつの時代においても、「ことば」は同じように力あるアイテムであったのです。その言葉を使って、イエスは弟子たちと民衆のみなさんに、福音のメッセージを伝え、救いへの道を紹介してきました。そして、新たな大きな意味合いをもたせて、弟子たちを鼓舞していくのです。

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今日の福音もその一つであるといえます。もちろん話の中身の中心はイエスです。その中で、イエスは弟子たちに「『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」とあります。この問いは、イエスが人々の前で話したり、奇跡をおこなったりするたびに、民衆から言われた言葉でもありました。

共観福音書で異なる「わたし」と「人の子」

ここで注目したい一つのことがあります。それは、同じ個所を共観福音書の中で見比べたときに、イエスはご自分のことを、マルコとルカでは「わたし」としていますが、マタイでは「人の子」という呼称にしています。(マルコ8章27~30節、ルカ9章18~20節参照)

「人の子」という呼びかたは、「弱くはかない人間存在」を表します。その表現に対してイエスは新たな意味合いを付与するのです。イエスは人の子であると同時に「天からの特別な存在である」という意味合いが込められた表現でもあるのです。つまり、いったんはこの世からは捨てられ、そして殺されはしたものの、神からの栄光を受けて人びとを救う「人の子」でもあるのです。しかもこのことが明らかにされたのが、異教の神や皇帝を礼拝する神殿の町、フィリポ・カイサリアでなされたのです。

肝に銘じたい「神からの呼びかけあってこそ」

その上、ペトロの告白は、イエスが望まれた真の信仰表現でした。それは「あなたは生ける神の子です」と告白するものでした。こう言わしめたのはほかでもない神ご自身です、とイエスは言われます。神ご自身が導かれるのです。神からの呼びかけ(恵み)があってこその人間からの真の応答でした。これがイエスが言う「信仰」なのでした。当然のことながら、そこには人間の思いはなく、神の思いのみが働いています。同じく神からの名指しの呼びかけに集まった者たちが「神の民」と呼ばれる教会なのです。

ところが、その教会のメンバーが人間的な私利私欲に走ると、お互いの絆にひびが入ります。ペトロは天国を開けるカギを預かりました。それは天国を開くためです。閉めるためではありません。「絆にひびが入る」ということは、天国入ろうとする人をも締め出してしまう行いになってしまいます。それは、イエス時代のラビたちが、民衆に行っていた、背負いきれない重荷を担わせてしまうことと同じことになってしまいます。

わたしたちの使命、神への応えは、ペトロと同じです。人々を天の国に導くことです。そのためにも、日常の人とのかかわりを大事に関りながら、言葉を通して、業を通してイエスを伝えましょう。

それは、言葉においても行いにおいても、ネガティブではなく、よりポジティブに。

 

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