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年間第21主日:過去を追憶するだけでなく、今に生かし未来に繋ぐ信仰を

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年間第21主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第21主日(B年)の説教=ヨハネ6・60~69

2021年8月22日

戦争、被爆、引き上げ、疎開体験等を巡って

わたしたちは、今年も終戦記念日を迎えました。太平洋戦争の終結から76年、日本軍の真珠湾奇襲攻撃から80年です。この歴史的事件を体験した世代も、今や後期高齢者になっています。中でも、戦争の残酷さや悲惨さを前線で体験した戦場体験者は数少なくなりました。こういう時代にあって、戦争がどのように語り伝えられるべきかは重要な問題である、と指摘するのはノンフィクション作家・保坂正康さん(82歳)です。(南日本新聞2021年8月15日朝刊)

語り継がれていくべき内容も、被爆体験、引き上げ体験、沖縄のように前線で逃げ回った体験、勤労体験、疎開体験などに比重が移っています。それでもそうした体験をいかに次代に語り尽くすかは貴重であり、体験世代の役割である、と続けています。

次の世代に語り継ぐべきだと実践しているが

そこで保坂さんが強調するのは、「次代に伝えることを正義の発露と考え、その実践に努めてきた。しかしこれからはそのような時代ではなくなるのではないか。一度立ち止まって黙考すべき時ではないか」と。この背景には、立花隆さんとの対談があります。「重要なことは、あの戦争の体験者や広島、長崎の被爆者の人たちが皆この世を去った時だよ。日本社会にどんな形で戦争が継承されているだろうかということだ」と立花さんが話されたのです。そのために自分たちの世代に何ができるかを自問することだ、と立花さんは言います。

立花さんの、戦争体験者が一人もいなくなったら、また同じような間違いを繰り返すのではないか、という分析に保坂さんは同感し、そういう時代がそこまで来ているのだからこそ、自省が必要であると強調されるのです。「例えば『軍部独裁』というけれど、実際は軍部が行政を握り、司法、立法を隷属化したのである。昨今の行政独裁に通じているのでは、との自省が必要だ。それを見逃していないか。そういう自省を基にした継承こそ意味を持つはずである」と、その手法を考えたいとしています。すべて、「いつも現在に連なる伝承を求めて」です。

単なる追想ではなく、問い直しと自省を基に

わたしたちは一国民として、また、個人としてもその歴史を刻んでいきます。忘れてはいけないこと、それゆえに語り継いでいく必要のある事、ものを抱えています。単に、思い起こすだけで終わってはいけないのです。いつも、今、自分が生きている時代背景の中で「問い直し」、自省のもとに継承されてきたものを、今後に連なる歴史体験として繋いでいくのです。

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イスラエルの信仰の根っこはまさにここにあったのではないでしょうか。だからこそ長い間待ち続け、継承していくことができたのでしょう。絶えずそこには、自らが選んだものに従い続ける「新たな覚悟」が求められたのでした。

自由に選択できるとき、何を基準に選ぶのか

わたしたちは何に従うのか、また、誰に従うのか、そして、それを決める自由を持っています。だからといって、いつも完璧に、間違いのない選択ができるわけでもありません。選択する前に、従うべき人が、師がどのような人であるのか知る必要があります。でないと、選択も不可能です。仮に知ったからと言って、十分な選択の保証もありません。それを邪魔する要因は、時として自らの中にあります。自分たちの判断や価値基準にこだわり続けるときです。

ヨハネ6章に出てくるイエスと人々のかかわりには、このことが顕著に出ているということができないでしょうか。イエスは自らを開示し、どのような存在であるかを知らせます。「わたしは天から降って来たパンである」と言われたのです。するとユダヤ人たちは「イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と。

きょうの福音書では、さらにひっ迫した弟子たちの姿が描かれています。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」と言って、イエスに躓きます。そして、離れ去っていったのでした。その数はあまりにも多く、最後に残ったのは12人だけになってしまいました。

当初はイエスを取り囲むのは大群衆でした。(6・2)それが群衆となり、(6・24)ユダヤ人という言い方に変わります(6・41)。それが弟子たちだけになってしまいますが、彼らのほとんどもイエスから離れ、いつの間にか12人だけになってしまうのです。彼らが、これほど集まってきた動機は何かといえば、「パンを足るほどに食べたから」なのです。

自分の世界、価値観にばかり拘っていては…

現実的な幸せや利益に心を奪われて、イエスに期待を寄せる人が大勢集まったのでした。その動機は卑近な、当然と思われるものであっても、自ら選び、決意してイエスについてきたのです。選んだものに従い続けるためには、絶えず新たな覚悟が求められるのではないでしょうか。彼らの先祖はそうしてきたのですが、・・。このことは、いつの時代も、どんなことに対してもいえることです。しかし、彼らはそうなりませんでした。自分たちの世界、価値観から抜け出せないのです。

一方、12人はどうかといえば、代表してペトロが宣言しています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。イエスご自身にむけての告白です。イエスの人格に対する宣言です。だから、いつの時代においても「今」につながっていきます。

過去の歴史的な出来事を、それとして終わらせるのではなく、「今」につながっている伝承、出来事として追憶することでしょう。

わたしたちの信仰も、こうして今の世相の中で育ち、豊かになっていきます。そして、後世に繋いでいくのでしょう。目指すは「いつも『今』に連なる信仰を求めて」です。

 

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