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年間第21主日:良さと悪さを併せ持つ「わたし」に勧める、それでも!

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年間第21主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第21主日(A年)の説教=マタイ16・13~20

2020年8月23日

「戦争の苦しみ 伝えなければ」

子どもたちの夏休みの真っ只中、わたしたちは終戦記念日を迎えました。毎年のこととはいえ、最近は、新聞、テレビ等の報道を目にし、耳にするたびに思います。戦争体験者による、語り継ぐ戦争証言者が少なくなっていくことを。何も、戦争の悲惨さだけを語り継ぐのではなく、戦争体験者だからこそ証言できる「平和」の尊さを、ありがたさをも語る人です。

南日本新聞「オセモコ」特派員の記事から

鹿児島の地元紙に南日本新聞があります。その紙面に「オセモコ」という一ページがあります。子どもたち向けにその内容が編集掲載されているのです。大人(おせ)も子ども(こ)も一緒に楽しんでもらうように、という意図で企画されています。「オセモコ」とは、鹿児島弁の「長才も子も(おせもこも)」を短くした造語です。また、各地にオセモコ子ども特派員をおき、感想や意見などを書いてもらいます。冒頭に記した見出しは、日置市湯田小学校5年生の特派員蓑田福(みのだ ふく)さんの感想文の中で言いたかったことのまとめといえるでしょうか。(南日本新聞2020年8月8日朝刊)

「黒い雨」訴訟の記事を読んだことがきっかけです。被爆者差別を恐れながらも沈黙を破り「真実はこうだ」と訴え続けてきた「黒い雨」訴訟。原爆投下後に放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びて健康被害が生じたのに、被爆者健康手帳の交付申請を却下したのは違法などとして、広島市や広島県安芸太田町の70~90代の男女84人(うち9人は死亡)が、市と広島県に却下処分の取り消しを求めた訴訟で、広島地裁は7月29日、全員の却下処分を取り消し、被爆者と認めて手帳を交付するよう命じる判決を言い渡したのです。

特派員の蓑田さんは「黒い雨」という文字を見て、なんだか怖いと思ったといいます。それが、広島への原爆投下直後に降った放射性物質を含む雨だと知って、恐怖に変わったのだそうです。「黒い雨訴訟」の記事をきっかけに、家族でいろいろ話をしました。お母さんが読んでくれた本の中に、被爆して苦しみ、生活に精いっぱいで、病気の治療ができずに若くして自ら命を絶った話とか、その他にも胸が締め付けられる話があったようです。

意見は大事だが、真実語るのが難しい時も

「戦争は人々が苦しむだけで何もいいことはない。戦争は絶対にしてはいけない。…わたしも多くの本を読んだり、いろいろな意見を聞いたりして、自分の意見をつくりあげ、それを人にわかってもらえるような言葉にして伝えなければいけない」と結んでいます。

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時代は進んでも、人間はそうそう変わるものではないんでしょうか。「真実」のことを語ると非難されたり、嫌みを言われたり、「村八分」にあったりと、今の時代にも 同じような姿を見ることができるからです。

新型コロナウイルスに感染した人が、まさしく同じような被害者になっているケースが多々聞かれます。しかし、隠されたまま放置されると、ますます罹患者が知られないまま、全体に蔓延してしまいます。何といっても、大事なことはお互いが心から助け合うことでしょう。それが、自分も救われ、安心できる確かな道です。

イエスが故郷で歓迎されなかった理由とは

イエスの時代にも似たような現象がありました。イエスは諸会堂で教え、そして、皆から尊敬を受けていました。その評判が一帯に広まっていったのです。ご自分が育ったナザレでのことです。いつもの通り安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれると、イザヤの巻物が渡され、開くと次の個所が出てきました。「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と。そして、巻物を係りの者に返して言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。(ルカ4章18~22節参照)

しかし、ナザレ人はイエスを受け入れることがありませんでした。イエスが「何者」なのかは、彼らなりによくわかっていたからでしょう。「この人はヨセフの子ではないか」。却って、町の建っている山のがけまで連れて行き、突き落とそうとしたのです。イエスは郷里では歓迎されなかったのでした。

ペトロが表明した「あなたはメシア、神…」

そのイエスが、ペトロの信仰宣言により「何者か」という中身が、真に明らかにされたのです。「生ける神の子キリストです」。このことは、イエスが「父である神を表す存在」であると告白しているのと同じです。イエスと寝食を共にしてきた弟子たちにはわかっていたようです。そしてそれは、後に信仰者として招かれるわたしたち一人ひとりも、同じ信仰宣言をすることになる始まりでもあったのです。この信仰宣言の正当性は、イエスが、天の父の賜物であると宣言しておられることからも明らかです。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。他の弟子たちにもこのことはわかっていたのに、ペトロだけが「あなたは幸いだ」と特別扱い(?)されています。

自分を見つめてみれば、神の支えなしには…

ところが、そのペトロが、この直後に、イエスから「サタン」呼ばわりされるのです。立派な信仰宣言の後に、真逆のペトロの姿が出てきます。これは、まさしく一人ひとりの「わたしたち」の姿でもないでしょうか。「信じます」と受洗の時宣言したのに、その後の、そして、今の「わたし」の生きざまはどうでしょう。

聖と俗、表と裏、強さと弱さ、良さと悪さを併せ持った「わたし」が、それでも、信じているのです。だからこそ、神の恵みが、聖霊の助けが必要なのです。弟子たちがそうであったように、・・。神に支え続けられなければ「わたしの生」はないのです。このことを伝え続けていくこと、それが、信仰宣言であり宣教活動でもあるのではないでしょうか。

「わたし」の真実の姿を見つめ、神の前にさらけ出し、素直に前に進み出しましょう。

 

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