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年間第22主日:イエスの十字架は、人間には納得がいかなくとも、神の愛

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年間第22主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第22主日(A年)の説教=マタイ16・21~27

2020年8月30日

「世界には何か国の国がありますか?」という問いに、とっさに答えることができず、調べてみました。日本の外務省によりますと、196か国だそうです。もちろん、日本も含まれています。

『罪刑法定主義』ってご存じでしたか?

これら一つ一つの国は、その国の統治のあり方に違いがあるでしょうが、法律のない国なんてないのではないかと・・。でも、あってもなきがごとき動きをしている国もあるのでしょうか・・。

いずれにしても、おおかたの国では「法律」が制定され、施行されていることと思います。それにしても、どれだけの法があって、どう運用されているのか、これだけの人口があって、みなが動いている中で、国民一人ひとりの意識に上ってくることが普段にあるのでしょうか。少なくとも、自分が直面する法律に対しては向き合います。例えば、身近なものには道路交通法など。

それにしましても、時代の流れとともに、法律も新たに加えられ、改変されていく必要性がどうしても出てきます。その中の一つに「ストーカー規制法」があります。ご存じの通り、「つきまとい等」(8つに分類されている)の行為を繰り返し行うと、この法によって裁かれます。

犯罪の多様化に法が追い付かない状態も

このストーカー規制法は、2000年に施行されましたが、2012年の電子メールによるストーカー行為からの殺害事件をきっかけに一度改正がおこなわれ、さらに2016年にSNS上を利用したストーカー行為から殺人未遂事件に発展したことを受け、SNSなども適用対象とした法律に改正されました。が今、さらに「早急な法改正を求める声」が上がっています。(南日本新聞2020年8月19日朝刊)

それは、衛星利用測位システム(GPS)機器を他人の車に無断でつけて位置情報を把握しても、ストーカー規制法違反にあたらないと判断した最高裁判決が波紋を呼んでいるからです。さらに、いつ改正されるのか不透明で、それまではストーカーがGPSで監視しても野放し状態になってしまいます。どうして?「法令で明確に決まったことしか処罰できないという『罪刑法定主義』の原則に沿うと、今回の結論にならざるを得ない」ということになるからです。条文の不備が露呈したといえます。

法律の文言に則って物事を判断しようとすれば、人間の常識では考えられないほどのおかしな結論が出てしまうことがありえます。法文は明示的で、具体的で、断定的だからです。ある時は、法の条文が何の意味もなさなくなる印象を受けることがあります。

これは「人の世界」の話です。全く同じではありませんが、「信仰の世界」でも似たようなことがあるように思えます。

理解し難い「自分の十字架を背負って…」

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とは、十字架を担う歩みは、いのちを拾う道であるということを強調して言われたイエスの言葉です。これを聞いた弟子たちはいかほどに納得がいったのでしょうか。どれだけその意味がわかったのでしょうか。

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まったくもって、弟子たちにはわからなかったと言ったほうがいいのではないでしょうか。それほどに、人間の常識を超えた、むしろ、人間の通常の価値観の範疇には入ってこない命題といえます。

人間なら「苦しみは避けたい」が当然!

それは、今のわたしたちにとっても同じようなことが言えます。どれだけ時間が経過しても、人間にとって、苦しみは避けるべきもの、嫌なものという感覚はぬぐい切れません。これからも同じではないでしょうか。

また、ペトロがユダヤ人の常識や人間の思いから自由ではなかったので、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってなりません」という言葉を発してしまったのでした。それに対してイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」といって、ひどくペトロを叱りつけます。

人間的な栄光を求めるとき、その人はサタンの虜になっているのだということをイエスは指摘しています。弟子(わたしたち)はイエスの後に立つべき存在なのに、イエスを差し置いて、イエスの前に立ちはだかることになるのだということでしょう。つまり、イエスの邪魔をしていることになるのです。この場合だと、十字架は神のみ旨に沿った道であるという確信のもとに語るイエスの動き、人間に対する愛の行動を邪魔していることになります。

十字架に価値があるということは、そうそう簡単に納得できることではありませんでした。今でも、多くの人が納得できていません。「十字架」が、「わたし」の周りの人々に伝わりにくいのです。自分の「信仰」の弱さが、「人間のことを思う」心がそうさせているのでしょうか。

十字架の価値、神の思いに近づくには

いみじくもパウロは言っています。「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かのものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」と。(コリントの信徒への第一の手紙1章22~25節)

何事も、人の思いと神の思いは、人間が納得できる世界では融合し合わないということができるでしょう。わたしたちが「真に召された者」にならない限り、・・。

さあ、どうしたらなれるのでしょうか。イエスと語り合い(祈り)、その語りを聴きましょう。たとえ、わたしたちに不備があったとしても、きっと、温かなまなざしを向けてくれます。ペトロたちにも、神の愛による十字架の価値を理解し、それを生きるように変えられる時が来たのです。聖霊の恵みに照らされたのちに、・・。

 

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