年間第22主日

日曜日の聖書

年間第22主日:あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。

年間第22主日(B年)の聖書(マルコ7・1~8,14~15,21~23)ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
2018年/B年説教=神への道標

年間第22主日:変わるものではなく、変わらないものに目を向けなさい。

イエスさまがおっしゃりたいことは、外に見える部分ではなく、見えない心のうちをよく見なさい、ということです。外部についてまわるものは、その都度変化していくが、心は変わるものではないからだ、と言われます。
日曜日の聖書

年間第22主日:自分を捨て、十字架を背負って、わたしに従いなさい。

年間第22主日(A年)の福音=マタイ16・21~27 〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第22主日:日常の小さな行いの積み重ねがイエスの十字架に繋がる

わたしたちの日常の小さな愛の行いの積み重ねが、イエスの十字架につながっています。大きいことはできなくても、積み木のように一つひとつ重ねていきたいもの。現代では、この「小さなこと」が見過ごされているのではないでしょうか。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第22主日:恵みは外見にではなく、人の変わらない内の姿に注がれる

イエスさまは言われます。「あなたがたは神の掟をなおざりにし、人の言い伝えを固く守っている」と。そういうかたわらで、イエスさまの弟子たちが手を洗わないで食事するのを見て、つまずくのです。そして、今の社会でも、教会の中に「変な人」がいるのに驚き、つまずくのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第22主日:すべてを先に、神が無償で配慮して下さっています

オリンピックに参加できた選手、観衆の皆さんは、自分の能力と謙虚さと新しい自分を発見する尊い場をいただいたのではないでしょうか。「自らへりくだる者」、自分を発見したいものです。
日曜日の聖書

年間第22主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

年間第22主日(C年)の聖書=ルカ14・1、7~14 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第22主日:イエスのペトロに対する叱咤は、愛における価値観の違い

天の父の思いを受け入れて「あなたはメシアです」と告白したペトロは祝福してもらいましたが、人の思いに捕らわれたペトロは「サタン」呼ばわりされます。似た体験は「人間の世界」でもあります。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第22主日:人が協力しあうとき必ず誰彼の自己否定を伴う

愛の生き方には必ず苦しみが伴うということです。それをその生き様で示したのが、イエスさまの歩む道だったのです。それが十字架(神の思い)の道でした。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第22主日:形に囚われすぎるな!内からの清めと癒しを

イエスさまが今日指摘なさるのは、「形があれば十分であるというような錯覚にとりつかれないように」ということです。そうしたことにこだわっていた当時の宗教上の指導者たちを手厳しくおとがめになります。狭い心になっていきやすいからです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第22主日:「生かされている」という謙虚さが平和をもたらす

外見上の見栄ではなく、「自分」がよってもって立っている根拠(神の無償の愛)に気付けばそれだけ、「わたしらしく」それだけ「謙虚に」なっていく自分が見えてきます。誰でも、その瞬間をだれかに生かされ続けていくのです。