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年間第22主日:人は「生かされている」ことを一人ひとりが認識すべき

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第22主日(C年)の説教=ルカ14・1、7~14

2019年9月1日

なんだか久しぶりに国語辞典に見入ってしまいました。それというのは、「卑下」と「謙遜」という言葉が、なんだか似ているようで、しかし、まったく違う感じがしているからです。新明解国語辞典(三省堂)と漢和辞典(学習研究社)をそれぞれに調べてみました。

「卑下」と「謙遜」の違いを調べてみると

「卑下」は「自分を、人より卑しいとか、劣っているとか思っている様子をすること」(三省堂)とあります。他方は(学習研究社)「自分を実際より価値のないものと思い込む」「身分がひくい、また、行いや態度が下品であるさま」とあります。

「謙遜」は「自分を低いものとして、相手に対して控えめな態度を取ること」(三省堂)とあり、一方は「へりくだって控えめである」「控えめでつつしみ深い」(学習研究社)とあります。

このような辞典の説明から、わたし個人として感じることは、偏った受け止め方になるかもしれませんが、「卑下」は、自らを貶めて、その結果が表に出てしまっていることといえるような気がします。「謙遜」は、その人の「人となり」からくる結果として、表に出てくる仕草、作法といえないでしょうか。同じ表に出てくる姿であっても、「意図的」な低い評価であるのか、否か、の違いがあるような気がします。

人はだれでも欲を糧に成長するのだが…

ところで、人は誰にでも「欲」があります。これがわたしたちの日々を支えてくれているのは事実です。「欲が出る」といいますが、これは必ずしも否定的なことを言っているのではないでしょう。一つの物事が成就したことで気をよくし、自信を得て、さらにもう一つ上の段階も望もうという積極的な気になっていくことをも意味します。この欲望を持っているからこそ、元気に、さらに大きく成長し、楽しく日々を過ごしていくことができます。

とはいっても、まともな伸び方だけをしてくれるといいのですが、時にはわき道にそれたり、道に迷ったりすることもあります。これがまた、人間の現実です。つまりは、誰かと諍いを起こしてしまったり、お互いにわがままが出たりするのです。

先生と呼ばれたがる人には耳が痛い「忠告」

きょうのイエスの話は、日頃から宴会の上座や会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人びとから『先生』と呼ばれることを喜ぶ人たちにとっては耳の痛い話になりました。

年間第22主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
年間第22主日(C年)の聖書=ルカ14・1、7~14 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

イエスは、当時の宴会で見られた普通の光景を題材にして、わたしたちに神との深い関係を示そうとされています。つまり、人間同士の親しい関係において、基本的な態度、振る舞いのあり方がしっかりしていることが、神との喜びある関係につながるんですよ、とおっしゃりたいのです。

神が人との関係を喜ばれるのは、次の言葉によって示されています。「あなた方は先生と呼ばれてはならない。あなた方の先生はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからである。・・・あなた方の中で一番偉い者は、みなに仕えるものになりなさい。自ら高ぶるものは下げられ、自らへりくだる者はあげられる」と。(マタイ23章8~12節)

他者より優れているものは、神からの恵み

「自らへりくだる者」は自分になにか優れたものがあるとすれば、それが神からの恵みによるものであると認識している人であるといえます。また、自分が弱く、神と他者からの助けがなければ、いられない存在であることを知っている人でもあります。これは決して劣等感でも、意図的な卑下でもありません。これを「謙遜」、まことの「へりくだり」というのでしょう。

マリアの賛歌に示されているとおりです。つまり、「力ある方が、わたしに大きなことをしてくださいました」といっているように、人間としての弱さ、いたらなさを認めるとともに、神のなさった大きなことを感じ取り、そして、それを信じて生きていける人こそが「謙遜な人」といえるのでしょう。

このことを、社会に生きていながらにして前に進んで行くときにこそ、人間の偉大さが表れてくるのであり、「新しさ」が芽生えてくるのではないでしょうか。聖マザー・テレサの生き方が示してくれています。そのために、一人ひとりが「回心」すること、その先に、真のしあわせがやってきます。社会に新たな変化が実現していきます。それは、「平和」ある人間の営みです。

だから謙遜な心の人は見返りを期待しない

平和としあわせの背後にあるもの、それは、わたしたち一人ひとりの存在が「いただいている存在」であるということです。自分の力で育てあげてきたものではありません。神の愛がなければ存在しえなかった「わたし」なのです。このことを一人ひとりが熟知し、認識できていけば、黙っていても「へりくだり」が普通のことになってくるというのでしょう。普段の生活の中で言うならば、食べ物を与えてくれる農家の人々、漁師さんなど、また、親御さん近所の人々がいなかったらどうでしょう。そうしていただく資格が「わたし」にあるからではないでしょう。愛は無償です。

謙遜な心の人は、見返りを期待しないし、そのために振舞ったりしないでしょう。落ち着いたゆらぐことのない人間関係が生まれ、育っていきます。このような自分を目指し、日々を重ねていきましょう。「普段のへりくだり」に乏しい「わたし」だから、・・。

 

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