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年間第22主日:自分を低くする者は、神によって高くされる

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年間第22主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第22主日(C年)の説教=ルカ14・1、7~14

2022年8月28日

かつて、わたしたち日本社会で、生活の中にテレビが定着しはじめ、カラー化も始まってアナウンサーの知名度も高まってきた頃、テレビ局の女性アナウンサーの中に、下重暁子(しもじゅう・あきこ)さんというNHKのアナウンサーがいました。わたしの感じですが、テレビ映えする人だなという印象がありました。

ネット情報で見た元NHKアナ・下重暁子さん

今ではさらに時代が進み、コンピューター時代となり、手軽に様々なニュースを入手することができます。さらには、自らが発信者になって世間を動かすほどのことだって、その気になればできる、ある意味、「怖い」時代になって来たなとの印象を抱いてしまいます。技術の発達を人類の繁栄、平和、安全のために有効活用したいですね。一人ひとりの意識がそのように高まっていくことを願っています。

コンピューターやインターネットの進化と広がりで,インターネットを中心とする情報技術(Information Technology)時代を迎えているのは確かでしょう。情報伝達が速くなりました。それにつれて、その広がりは、工学的技術から企業経営、人文・社会科学、コミュニケーションまで及んでいます。それらの情報の中に、先の下重暁子さんの情報がありました。

「下重暁子『ずっとひとりが好きだった私が、70代後半に脱いだ心の鎧。コロナ禍につれあいの入院で気づいた人の支え』」という見出しで掲載されています。「孤独は、寂しいものではなく、自分を見つめる大切な時間」と言い続けてきた下重さんです。それが「ようやく自然体で人とつきあえるようになりました。ちょっと遅かった感もありますが、今が一番ラクで自由です。長い人生の中で、自分の手の中に残る友だちはほんの一握り。だからこそ、『人生の宝』として大事にしなきゃいけないのだと思っています。」と、おっしゃるほどに変わられました。(婦人公論J.P)

『ずっとひとりが好きだった』理由とは

彼女がどうして孤独を愛するようになったのか、その理由も語っています。

「そもそも私が、『群れず、媚びず、馴れあわない』と、孤独を好むようになったのは、子どもの頃に体が弱かったことが原因です。小学生のときに結核を患い、2年生と3年生の2年間はほとんど学校に行っていません。同世代の友人はひとりもおらず、家でひとりきり。本を読んだり、画家志望だった父の画集を眺めたり。部屋の隅に巣を張っている蜘蛛だけが、私と遊んでくれる唯一の友だちでした。」さらに続けます。

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「もうひとつの理由は、職業軍人だった父の仕事の関係で転勤が多かったこと。2、3年おきに転々と、転校を繰り返していたので、たまに気の合う友だちができてもすぐに別れが待っている。それが子ども心にもつらかったから、最初から誰とも仲良くならないように、自分を抑えていたところもありました。」と。

わたしたちの真実は「神に与えられた存在」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスは今日の福音で語っておられます。これは神のなさりかたであるといいます。その中身は「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1章51節~53節)という神のなさりかたは、今も変わることがありません。

これらは人と人との間で交わされるやりとりです。したがって、日常のわたしたちの一挙手一投足に関係してきます。人の内側にあるものが外に出てくるからです。生きてきた経験から(?)言えること、それは誰にとっても心の奥では共通しているものだと思います。それというのは、「お互いの中に謙虚さがなければ、真実な交わりは生まれてこない」ということです。誰もが認めるところでしょう。ところが、置かれた立場、環境の違いから、また、役職の責任上からどうしても「駆け引き」に頼ってしまわざるを得ない状況に追い込まれてしまうことがあるのです、と弁解したくなることがあります。これまた、わたしたちが生きている社会の現実なのです。その狭間で苦しんでいる人がたくさんいるのではないかと思います。

今日の福音書に出てくる人たちは、何かと自己顕示欲が旺盛な人たちのようです。そのエネルギーの源になっているのが彼らの社会的な地位、野心などです。そんな気持ちで集まっているところに、友情など芽生えるわけもないでしょう。互いへの警戒心が深まっていくだけではないのでしょうか。

神と他者の無償の愛に支えられた”いのち”

真の交わりは、そこに自分の真の姿を見せあうことに始まるのでしょう。真のありのままをひらき合う時、それが土台となって発展していくのではないでしょうか。そこには、お互いを尊重し、評価し、へりくだる心が必ずあると思います。

そのように言える根拠は、わたしたちの真実が、神に与えられた存在である、ということにあります。自分の命は、自分でつくり上げ育ててきたものではないということです。どこにおいても、だれかのお世話になっています。皆の無償の愛で育まれてきたものであるがゆえに今の「わたし」が存在しているのです。そして、末席についた時も、お返しができない人を招いた時にも、その報いを与えてくださるのは神だからです。「高められる」「報われる」のはどなたがなさるのかと言えば、いつも神です。わたしたちが見捨てられることはないのです。だから謙虚な心もそこから生まれます。

自分の存在の根拠が他者にあるのです。神と他者の無償の愛に支えられた命なのです。

人が末席を選ぶとき、招待のお返しができない人を招くとき、その人の「面目」は人からではなく、神からいただくのです。

下重さんが「一握りの友を『人生の宝』」と思えるようになったこと、それは神からの報いだったのでしょうか、・・。

自分を低くする者は、神によって高くされます。

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