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年間第21主日:イエスの教え⇒狭い戸口から入る人は救われる!なぜか?

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年間第21主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第21主日(C年)の説教=ルカ13・22~30

2022年8月21日

「彼方を立てれば此方が立たず」

「動物の保護は難しい」の書き出しで、アフリカゾウを守ることの厳しさが指摘されています。(南日本新聞2022年8月9日朝刊) 

その理由は、密猟者を完璧に取り締まることが不可能なことにあるといいます。パトロールするにも多額の金がかかります。市場に出回った違法な象牙を見つけ出して排除することも難しい。このため、象牙が高くで取引される市場の存在が密漁を助長させ、保護の妨げになっています。

また、保護により増えたゾウが農作物を食い荒らし、人身被害も引き起こしているのです。「彼方を立てれば此方が立たず」という状況なのです。保護が地元の方々のメリットになるように、透明性のある象牙市場の構築が不可欠ではないかとの意見があります。

絶滅危惧種の保護と漁業者の葛藤

同じような状況がわが国でも起きています。沖縄県久米島の海岸で7月、30匹以上のアオウミガメが漁師に刺されました。絶滅危惧種ではありますが、漁師にとっては海藻や養殖のモズクを食べたり、網にひっかかって漁の妨げになったりする、いわば害獣となっていたのです。

動物の保護は崇高なことではありますが、単に「守れ」だけでは必ずどこかにしわ寄せがいきます。行政と専門家、漁師らが一緒になって話し合い、保護・管理の枠組みを作るべきではないんでしょうか。猟師、漁師に保護を手伝ってもらい報奨金を渡すとか、何かの具体的な方策を議論すべきでありましょう、と提言されています。

人間のやることにはいつも限界があるものです。「彼方を立てれば此方が立たず」という現象は、いずこにおいても見られることではないかと思います。人が関わっている限り、・・。理想郷を描くことは、いとも簡単でしょうが、実現には難しい課題、壁が待ち受けています。人の個性が時にはみなの「一致」を乱すというようなことになるのでしょか。否、決してそれはないと思いますが、・・。「個性」というよりも「自我中心性」でしょう。個性とは「ひとりの人間として存在していること」を表現する言葉です。難しいことは置いといて、悪いことのために存在しているもの(個)は、決してないからです。

そして今、生きているわたしたちにとって、完璧はないとしても、それぞれに十分な働き、生き方をすることはできます。ついには、救われるためです。

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そこで今日のイエスは次のように勧めます。「狭い戸口から入るように努めなさい。」と。そしてこれは、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」ということばにつながっていきます。

狭い戸口から入るように!とは…

では、「主よ主よ」という人はどんな人たちを指しているのでしょうか。先ずは、神のことはよくわかっている人、それゆえに、聖書の教えも分かっている人です。また、日常の掟も理解し、その生活ぶりは申し分がないと思っている人たちのことです。したがって、彼らは信仰的にも社会的にも人々の模範になって生きている人たちなのです。少なくともそう自らに思い込ませている節があると言えなくもないですが。

しかし、こうした人々の落とし穴が、いつの時代にも大きく口を開けて待ち伏せしているものです。いわゆるそうした状態の自分に麻痺してしまうのです。安住の場として錯覚してしまうのです。そうなると、本来の自分を見失っていきます。その先に待っているのは、自己中心型、わがまま型、利己主義型、他者軽蔑型となっていくことです。少しずつ蝕まれていきます。その結果がどうなるか。知らないうちにイエスから、隣人から遠くに離れてしまっているのです。

自分の弱さを見つめて前に進むこと

これらはすべて、言い方を変えれば「弱さ」「未熟さ」からくる結果であるといえるでしょう。他人の未熟さ、足りなさにはすぐ気づくわたしたちではありますが、自らのそれにはなかなか目覚めないものです。でも、時間がかかってもそのことに目覚める時、わたしたちは飛躍的な変化、成長を期待することができます。

先ずは、自分の弱さ、未熟さをしっかりと見つめ、自覚して、前に進むことです。その上で、神の恵みのおかげで今の自分がある、日常があると目覚めることです。その先に、隣人への奉仕、共鳴、共存が広がっていきます。マタイの福音書にある通りです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25章35節~36節)

神は身近な出来事を通して働いている

福音書の中での「主よ主よ」という人たちすべてが大事にすべきことは、自らの身近にいる人、出来事に関心を示し、大事にかかわっていくことではないでしょうか。身近な人、出来事を通して神はわたしたちに何かを語り、働いておられるからです。人の知恵を出し合い、人間同士が生きていくことの苦しみ、悲しみを感じあい、理解し合い、そのために自分にできることを精一杯やってみようとする勇気を抱くこと、また、それを実践に移すことがいかに大事なのかが分かります。

「彼方を立てれば此方が立たず」という限界を感じながらも、それでも前に進もうとする勇気と知恵と大胆さがあるならば、必ず一人ひとりの道は開けます。自己の弱さ、未熟さの上に立って、周りの人々に心配り、実践がともなう時、平安な、安らぎをいただく恵みを味わうことができるでしょう。

今日のイエスはわたしたちに、そうおっしゃっておられます。

 

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