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待降節第2主日:神の「つぶやき」を心の耳を澄まして、聴きとりたい

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

待降節第2主日(C年)の説教=ルカ3・1~6

2018年12月9日

紫色にどんなイメージを抱きますか?

待降節に入り、典礼の中で司祭が身につける祭服の色が紫色に変わりました。紫色に関して、みなさまはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

紫色は、王様、女王様、聖職者、聖者など大衆、人々へ奉仕する人々が身につけてきたヴァイオレットローブ(紫色の衣)として象徴されてきた印象があります。時には、欲求不満の人が選ぶ色と聞いたこともありますが、やはり「奉仕する人」の色であったと思います。

自分はラベンダーとその香りを連想

紫色といわれて、わたしが思い浮かべるのはラベンダーです。京都には何種類ものお香が販売されています。JR京都駅の新幹線口にいきますと、かなりきつい香の匂いに、当初はびっくりしました。どこから匂ってくるのかと探していますと、一店舗まるまる香のお店でした。いい値段です。

その香の一つにラベンダーがあります。心にある悲しみや怒りを和らげ、傷ついた心を癒してくれる効果があると聞いています。作業に集中したいときや、病を回復させるための治療として用いられたこともあったと聞きました。今でも、リラックスの効果があるとして香に用いられているのでしょうか。一般にはこのような印象があるとは言いましても、人によっては、そうでもない方もおいでのことと思います。

カトリック教会の典礼色は12世紀から

カトリック教会に典礼色があります。教会の典礼祭儀における色は、12世紀ごろから公に用いられはじめたといわれています。(パリ日本人カトリックセンタ―、第7回シンボル「色が表わす意味」より) 現在のカトリック教会における典礼色は、「祝われる信仰の特徴や典礼記念の流れにおいて進展していくキリスト教生活の意味を外面的にも効果的に表すことを目的」(ミサ典礼総則307番)としています。

原則として、以下のように用いられています。

  • 「白色」は復活節と降誕節、受難の日以外のキリストの祝日と祭日、聖母マリア・天使・殉教者でない聖人の祝日と祭日、諸聖人(11月1日)、洗礼者ヨハネの誕生(6月24日)、聖ヨハネ福音記者(12月27日)、聖パウロの回心(1月25日)。
  • 「赤色」は受難の主日(枝の主日)と聖金曜日、聖霊降臨、キリストの受難の諸祝日、使徒および福音記者の帰天日、そして殉教者の諸祝日。
  • 「緑色」は年間。
  • 「紫色」は待降節と四旬節。また悔い改めや回心の儀式で用います。死者のためのミサにも用いることができます。
  • 「黒色」は死者のためのミサで用いることができます。
  • この他に、ばら色(薄紅色)の祭服もあります。
    今では見かけることが少なくなりましたが、待降節第3主日と四旬節第4主日に用いることができます。

喜びをもって準備したい「待降節」

今、待降節を過ごしています。これまでは、総則にもありますように「悔い改め、回心」があまりにも強調されすぎて、その先に来る「喜び」・キリストの誕生が影を潜めていた感がします。だから、できるだけ質素に華やかな姿を見せてはいけません、といわれてきました。なにも豪華絢爛にする必要はありませんが、「喜びをもって」待ちましょう、準備しましょう、というメッセージをもっと大事にしたいものです。

待降節第2主日:ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。主の道を整え、その道筋…
待降節第2主日(C年)の聖書=ルカ3・1~6 皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、

今日の福音では、「荒れ野で叫ぶ者の声」洗礼者ヨハネが登場します。その叫びの中味は何かといえば、バビロンに連行され、苦役に服したユダヤの人々への救いのメッセージだったのです。

バビロンに捕らわれ、なにもかも奪われてしまった体験、それが彼らに反省の機会を与えてくれたのです。それまでの歴史は、乱れきった生活だったということです。地位ある者たちは権力争い、金持ちは貧しい人たちを踏み台にして不当に金儲け、人々は現実の生活に追われ、心は完全に神を無視した毎日でした。この生き方が「罪」の生活であったことに気づかされたのでした。

神を無視した乱れた生活であっても

「病まなければ 聴き得ない 言葉がある」とは、小野恭世シスター(イエズス孝女会)がその講演で語られた言葉です。詩人・河野進さんのことばだそうです。人間、どのような状況の中でも、体と心の耳でとらえることのできるメッセージがあるということでしょうか。

バビロンのユダヤ人も、いっさいの楽しみ幸せを奪われた中で、自分たちの穢れ、神への裏切りの生活に目覚め、ゆるしをいただかなくてはいけないという神からのメッセージを聴いたのです。

「荒れ野」は、彼らが故郷へ帰るにはあまりにも過酷な世界でした。この砂漠があること自体、彼らの心身のやる気が削がれていったのです。

神は人の気づきを待っておられる

それでも、すべての人は神の救いを見ることができる、と声高らかにヨハネは宣言します。「自分はゆるしを願い、救いを必要としている存在である」という自覚を持つことが求められているだけです。その先に、神は待っておられるとヨハネは告げているのです。神は喜びにつながる道を、たとえ苦役の中でも、彼らに用意されてきたのです。今のわたしたちも、イエスさまの誕生を待っている時にあります。いくら苦労を抱えていても、・・。

わたしたちの日常で、同じようなことをたくさん経験します。ちょっと「気付くこと」です。クリスマスはいつものことよ、で済ますのではなく、心の耳を澄まして神がささやきかけてくださる「つぶやき」を注視してみましょう。

 

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