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待降節第1主日:自分の現実を見つめつつ、「見るべき方」に目覚めよう

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

待降節第1主日(C年)の説教=ルカ21・25~28、34~36

2018年12月2日

世界の各地で「和食」が食されているとよく聞きます。何がいいのかと問えば「味付け」が素晴らしいとの答えが返ってきます。つまり、「出汁」のことを言っているのでしょうか。この出汁をとるのに、かなりの時間をかけるのだそうです。料理に疎いわたしには、出汁の取りかたよりも、それに「時間をかける」ということに、料理長の意気込みを感じます。プロが時間をかけることによって、深みあるいい味といいますか、ちょっとした味わいの違いが、準備の内容によって料理の味全体に出てくるんでしょうね。より多くのお客さんにとって、できるだけおいしい料理にするために、・・。

和食高評価の元は、時間をかけてつくる出汁

わたしたちも日頃、何かを手がける時、必要な準備をしっかりとやって本番に臨みます。師走に近づきますと、日本全国いたるところで正月に向けての準備が始まります。「幸呼ぶ梅 心込め」の見出しで、北野天満宮での元旦に向けての準備作業が紹介されています。(讀賣新聞大阪本社、2018年11月28日朝刊)

元旦に茶や白湯に入れて飲み、無病息災を願う縁起物「大福梅」(おおふくうめ)の包装作業が始まったようです。約3万袋を用意し、12月13日から1袋700円で授与するということです。

北野天満宮では元旦の準備が始まったらしい

大福梅は、境内にある約1,500本の梅の木から収穫した実を塩漬けし、天日干ししたもの。平安時代、村上天皇が梅を入れた茶を飲んで病が治ったことから、「王が服す」の語呂合わせで名づけられたとされています。巫女6人が,梅の実6粒に正月の飾りに使われるシダ「ウラジロ」を添え、丁寧に和紙に包んでいきます。巫女の大坂屋摩也(まなり)さん(22歳)は「大福梅を授けられた人たちに、1年を健康に過ごしてもらいたいとの思いをこめました」と話しています。

教会はクリスマスと正月に向けて準備に入る

カトリック教会でも、正月とクリスマスに向けての準備に入ります。わたしがフィリピンに滞在していた時には、わたしの記憶だと、10月の下旬よりクリスマスの雰囲気作りが始まっていたように思います。メインストリートには巨大なクリスマスツリーと、これまた巨大な星が設置されていました。人々が日頃行き来している場所には、否応なしに目に入るデコレーションが、あちらこちらにあります。人も場所も徐々に盛り上がっていくんですね。

一般社会がこうした準備に取り組んでいく背景には、人はみな、間違いなく「健康で、安心して、幸せな日々」を願っての思いがあるのではないでしょうか。わたしたちはいくつになっても、幸福へのあこがれは消え失せません。幸福の基準には違いがあるでしょうが、安心して平和の裡に、幸せに生活できることは願ってもないことです。自分には縁のない話だと、本心から思われる方はいないと思いますが、・・。

幸せを願って準備しても、永続の保証はない

しかし、現実の生活ではそうではない体験が続きます。仕事も順調。親子、夫婦とも仲睦まじく、家族で楽しく過ごし、充実している間はいいのです。でも、その期間もそう長くはないということを体験上わかっています。それでも、いい状態を保つべく日々努力していきます。そして、何かのきっかけで落ち込んでしまうと、苦しい期間の方が相当に長く感じられてしまいます。いつまでも続く幸せな、安定した、平和な生活の保証はないのです。これがわたしたちの人生でしょう。

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救いのメッセージを告げ伝える聖書は、人生が苦であるという断定的な言い方はしていませんが、「苦しいものである」という現実を無視しているわけでもありません。しっかりと見つめています。今日のルカの福音書は語ります。

「太陽と月、そして星に徴が現れ、地上では、海と波のとどろきに、国々の民は慌てふためき、不安に陥る」と。これは、自然界の大きな力の前になす術もなく、その力に押しつぶされ、苦しんでいる人間の姿と受け取るべきでしょう。しかし、もっとも身近にあって、日々、陥れられるかもしれない環境にわたしたちは置かれています。それは、自分を含めた「人間」の交わりです。

何が起きても救いへの渇望をなくすことなく・・・

というのは、わたしたちにとって、最上級の喜びが人との交わりから得られることは周知のことです。しかし同時に、その反対も人から受けるのです。人間の中に潜んでいる「エゴイズム」が、いつ頭をもたげるのかわからないからです。

幸せを追い求めてやまないわたしたちですが、幸せは一瞬のうちに飛ばされていきます。いつも、そのような環境の中に置かれています。だから「目を覚ましていなさい」とイエスさまは言われます。救いへの渇望をなくすことなく、そして「民はみな、朝早くから神殿の境内に集まって、イエスの話を聞いていた」ように、わたしたちにも、苦しみの中にのみこまれないように、目を上げて神を仰ぐように、見るべき方を見るように勧告なさいます。

神の救いの手がそこにあるのに、・・。

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Fr.YASU
Fr.YASU

新しい年度になりました。今年度もよろしくお願いします。
向こう一年間のテーマは「召ばれています、いつも」にしました。

「よばれています」と発音します。みな、一人ひとりが同じく、等しく召されています。差はありません。「いつも」は絶えず時を待たずによばれている。わたしがそのことを意識するしないにかかわらず、です。

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