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復活節第3主日:イエスの復活顕現は、わたしたちの信仰の要、励まし

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

復活節第3主日(C年)の説教=ヨハネ21・1~19

2019年5月5日

JR福知山線事故被災家族の話を基に

2005年4月25日、JR福知山線で列車脱線事故が発生しました。乗客106人が犠牲となり運転士も亡くなりました。あれから14年の歳月が経ちました。JR 西日本は今年初めて事故現場に設けられた慰霊碑の前で追悼慰霊式を営み、遺族や負傷者ら525人が参列したとのことです。(京都新聞、2019年4月25日夕刊)

その参列者の中に、事故当時中学3年生・14歳だった中村海里さん(28歳)がいらっしゃいます。「人生は竹と同じ。節目が大事よ」と、事故で帰らぬ人となった母親が語った言葉を思い起こすといいます。事故前夜にお母さんが「大きい竹になるには節目が大切。人生も同じで、節目で頑張らないといけないよ」と語ってくれたそうです。当時高校受験を控えていた海里さんへの最後の助言になったとのこと。(讀賣新聞大阪本社、2019年4月26日朝刊)

人には前に向かう力が備わっている

あれから14年。父親と同じ料理人の道を進み、昨年7月、高校の同級生麻菜美さん(28歳)と結婚。麻菜美さんのおなかには新たないのちが宿り、来る7月に出産予定。出産予定日が近づくにつれて、「お母さんに孫を抱かせたかった」という気持ちとともに、事故前夜のお母さんの言葉を思い出すことが増えたといいます。いくつもの「節目」を乗り越え、気がつけば、お母さんに守られて過ごした14年間と同じ月日が流れてしまっていたのです。

わたしたちは意識するしないにかかわらず、自分の生活の要に、何かしら支えというか、前に向かう推進力になるものを持ち合わせています。自己成長に合わせてそれらも育ってきているのです。だからこそ、各々が生きてきた環境、過程が大事になってきます。自然環境、人的環境等、たくさんの要因が考えられるでしょう。

イエスが私たちを見つけてくれる

聖マザー・テレサも言われます。

「イエス様なしに、なすべきことを、全部やりとげることはできません。
少なくとも全生涯にわたって。一年、二年なら、たぶん可能かもしれません。・・
イエス様なしでは、
わたしたちの生き方は不合理で、不可能なものでしょう。
ただイエス様だけが、
この生き方をわからせてくださるのです。
わたしが、イエス様を、見つけねばならなかったのではありません。
イエス様が、
わたしたちを見つけてくださったのです」と。

(「マザー・テレサ100の言葉」より)

今日の聖書朗読で読まれる福音書では、イエスが復活して弟子たちに出現された三度目の話が記されています。それによりますと、イエス亡きあと、弟子たちは以前のように漁師の仕事に戻り、いつものように生活しているさまが描かれています。これまでの漁師としての知識と経験を活かしても捕獲できなかったとあります。一晩中働いても魚は一匹もとれなかったようです。これでは元気が出るはずもありません。かえって疲労が体にこたえます。マイナス面だけが心身に結果として残ります。

ペトロの言動を整理してみると・・・

「すでに夜が明けたころ、イエスが岸にお立ちになった」のですが、弟子たちの目は遮られていてイエスだとはわからなかったのです。あのエマオ途上の弟子たちと同じでした。イエスは彼らのその姿をご覧になり、自らお声を掛けられます。「舟の右側に網を打ちなさい」と。そのイエスの言葉にしたがって網を打つと、魚がいっぱいかかって、網を引き揚げることすらできなかったくらいです。

この出来事は、イエスから呼び出され、イエスについて行こうと決心したあの時を思い起こさせます。(ルカ5章4節~6節)その時ペトロは叫んだのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と。しかし今回は、服をまとって湖に飛び込み、イエスの方に泳いでいきます。泳いで岸辺まで行ける距離(約90メートル)でした。

イエスに対し熱く誠実だが、裏切りも

また、イエスはペトロと対話なさいます。かつて、最後の晩餐の席で、ペトロはみなを代表して宣言しました。「主よ、わたしはあなたとともに牢獄に入り、死ぬ覚悟があります」と。(ルカ22章33節)しかし、イエス預言の通り、ペトロはイエスを裏切るのです。「三度わたしを知らない」(ルカ22章34節)と言って。イエスをおいて逃げてしまったのです。生身の人間としての弱さ、卑怯さをいやというほどに体験したペトロは、歴然としたその事実を前に、自分の過ちをイエスに告白もできていなかったのです。そして、今日の福音にあるような出来事に遭遇するのです。

復活節第3主日:イエスはペトロに三度問う「わたしを愛しているか」
復活節第3主日(C年)の聖書=ヨハネ21・1~19 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、

イエスはその生前でも、復活後でも、まずはご自分の方から弟子たちに声を掛けられます。しかも、たとえ不備が弟子の側にあったとしても、そのことを気づかって婉曲的な迫りかたで気づかせてくださるのです。ペトロが泳いでイエスに向かって行ったのも、ペトロが再生できたであろう「三度の告白」も、ペトロの中で、自分の生き方の要、推進力になっているのは「イエス」以外にない、とのペトロの強い意思表示だったのではないでしょうか。

イエスは一貫して自分から寄っていく

そして、こういう言い方がゆるされるなら、イエスの弟子たちへの復活後の出現話は、イエスを信じる今のわたしたちへの、イエスと弟子たちからの「信仰の分かち合い」のように思えます。イエスを信じる”あなた!”、福音の話をどのように思い、感じていますか。

 

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