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復活節第4主日:羊飼いは羊をよく知り、羊はその声を聞き分ける

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

復活節第4主日(C年)=ヨハネ10・27~30

2019年5月12日

2006年(平成18年)11月に開館した「京都国際マンガミュージアム」(中京区)が、烏丸通り沿いにあります。この場所は、年間30万人近くが訪れる人気スポットになっています。最近は外国人観光客が増え、来館者の3割を占めるほどになっています。(讀賣新聞大阪本社、2019年5月6日朝刊)

京都国際マンガミュージアムの話から

しかし、当初は、住民からの反発もあったそうです。龍池自治連合会長の澤野輝彦さん(81歳)は「マンガを見下していた面があった」と振り返ります。それでも「建物を地域の交流拠点として残す」ことを条件に、地元も「マンガミュージアム開設」案を容認したということです。

ミュージアムの創設に尽力した京都精華大学(左京区)副学長の吉村和真さん(47歳)は、平成時代にマンガに対する見方が「娯楽」から「文化」へと変わったことが開設の後押しになったと指摘しています。同大学は、ミュージアムに「国際マンガ研究センター」を併設し、資料の収集や公開、調査研究などを行っています。マンガが文化だと認識されるようになった最も大きなきっかけは、「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫が亡くなったことだといいます。彼は昭和から平成に変わった約一か月後の1989年(平成元年)2月9日死去したのです。「マンガとは何か」という機運が高まり、手塚やほかの漫画家の作品を研究したいという若者が出てきたのです。同大学は、全国初のマンガ学科(現在は学部)を開設しています。

施設開設は行政、大学、地元一致の結果

このミュージアムの創設は、それにあたった京都市と京都精華大学側の思いと、地域住民の手によって開校した小学校跡地利用に対する思いとが、見事に一致した事業になったということができます。つまり、「文化発信と交流の場」という両立が実現したのでした。

人の世界では「見事に一致」したとはいっても、その中身については「一致」の濃淡が考えられます。それでも、目指すところが同じであれば、また、お互いが信頼し合っているのであれば、並走して前に進むことができます。大事なことは、両者間のかかわり、絆がどれほどのものなのかということではないでしょうか。そこから、お互いが成長し、さらに新たな展開が自ずと始まります。ますます充実度が増し、その存在感も増大していきます。さらに関係が強く、深いものになっていきます。

イエスは「父と一つである」と明言した

今日の福音書では、よき牧者についての話が朗読されます。羊と羊飼いの話です。今日のイエスの話の中心は、「わたしは父と一つである」ということです。今日の話の直前には、イエスがメシアであるか否かをはっきりさせたいとして、気をもんでいるユダヤ人の姿が描かれています。その問いかけに対してイエスは、「メシア」という言葉こそ使ってはいませんが、その代わりに「わたしと父とは一つである」と断言しています。つまり、自分は神から遣わされたメシアであることを示されたのです。

復活節第4主日:わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。彼らはわたしに従う
復活節第4主日(C年)の聖書=ヨハネ10・27~30 〔そのとき、イエスは言われた。〕 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。

イエスは、このことを伝えるべく、羊と羊飼いの話をされるのです。ここで重要視されているのが、羊飼いと羊のかかわり、絆の問題です。「わたしの羊」と「わたし」との間にある絆が、いかに強いものであるかが示されています。羊飼いの思いが羊に通じるというのです。なぜって、「わたしは羊を知っている」からです。だから、「わたしの羊」は「わたしの声を聞き分ける」のです。だからこそ、どのように羊を導けばいいのか、羊飼いはよく知っているといいます。当然のことながら、羊飼いは先に羊に声を掛け、導こうとしていくのです。羊にとって一番安心できる羊飼いの声であり、導きです。

長い連休のあと、保育園、幼稚園に通園しなくてはいけなくなった子どもたち。困惑してしまっています。安心できる声と姿がそこにないからです。住んでいる環境の急激な変化は、子どもだけでなく、大人にとっても、時には大きな不安の原因にもなります。親子関係、友人関係、職場関係等、自分が生活している環境の変化に伴い、そのかかわり、絆にも変化が出てきます。子どもにとっても親にとっても、親子関係は、深くて、手放すことのできないものです。

ユダヤ人とイエスの関係はどうでしょうか。「信頼」「安心」という絆からはほど遠いものでした。イエスが自分を神と等しい存在として語ることは、ユダヤ人にとっては不可解というか、神を冒瀆することでした。それもそのはずです。旧約の世界から受け継いできた彼らの信仰に忠実であろうとすればするだけ、イエスの言動は受け入れがたくなります。

メシアがいつ来るかは知っていました。しかし、その何たるかについては、メシア自身が明らかにしていくことに気付いていないのです。

だから、永遠の命を与えることができる

そこでイエスは語っているのです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはいつまでも滅びることがなく、誰もわたしの手から彼らを奪い去りはしない」と。自分は父と一つだから「永遠の命」へと導くことができるのだと言われます。「父の手」に守られ、「わたしの手」に守られ、神は決してわたしたちを手放すことはないのです。イエスは羊と羊飼いの関係の中に、このことを伝えようとされます。

わたしたちは、神との握手を、わたしたちの方から緩めていないでしょうか。人間の世界では、自分勝手に、自分の都合に合わせて振舞うことが多いようなので、・・。

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