復活節第3主日(B年)の説教=ルカ24.35~48
2012年4月22日
世の中に「不思議なこと」はよくある話です。どうして不思議なのか、と考えますと、それが通常ではないこと、常識の世界では説明、理解ができないこと、などの意味が含まれているからでしょうか。
いずれにしても、普通では合点がいかないことであることには変わりがありません。また、信じがたいことだからといって、それらを無視しても、わたしたちの意に関係なく、客観的に存在するのです。特に、神の存在についても同じことが言えます。「神を信じない」と自ら宣言される方々がいらっしゃいます。また、神を信じる方々もいらっしゃいます。
神ご自身は、どちらの方々の思い、考え方にも左右されることなく、存在なさいます。逆に、神が存在しているからこそ、今のわたしたちの生活が、命があるといえるのです。わたしたち人間の存在の根源には、神の関与があります。それを明らかにしてくれるのが信仰であり、聖書です。しかし、そこにも謎があります。
つまり、「合点がいかない」ことがあるのです。今日の福音の中でそれを見ることができます。一言でいうならば、どうしてあの弱虫で欠点だらけの弟子たちが、「使徒」として派遣されることになったのかということです。多くの弟子たちの中から12人の使徒としての特別な任務を受けて派遣されていくのです。
イエスさまの十字架を前にして、震えおののいていたあの弟子たちが、勇気にみちた「使徒」へと変貌していったのでした。何かが彼らに加わってこなければ、そんなになることは難しいでしょう。
その「何か」とは何でしょうか。それが、まさに復活したイエスさまに会うことができたということです。要するに、復活は事実であったということです。実に不思議なことではありますが、弟子たち、民衆の思いとは関係なく、事実なんです。だから弟子たちは「使徒」としての変貌を成し遂げ、主の復活の「証人」としてのメッセージを宣べ伝える任務を受けたのです。
わたしたちも自分で自分を変えていこうとしないで、変えていただくという考え方が大事になってくるのではないでしょうか。そこには「不思議なこと」がなくなっていくような気がします。ここに主の復活のメッセージがあります。
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