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復活節第3主日:主の復活は、人間の尺度を超えた「救い」の道を示した

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復活節第3主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24・13~35

2023年4月23日

以前は、自由闊達な人をしばしば見かけたものです。果たしてどのような育ちをしてきたのだろう、と羨むようなこともありました。それだけに、どちらかといえば「おおらかな人」が多かったような気がします。だからこそ、笑って済ませるような気楽さで、気にしないで相手との会話を楽しんでいたように思います。

「ハラスメント」という言葉を巡って

それがどうでしょうか。現代では何かにつけ「ハラスメント」ではないか、「こんな言い方をすれば、相手が傷つきはしないか」と、相手の心情を心配しながらの会話に、ほとほと神経が疲れ果ててしまうと感じることが多くなったのではないでしょうか。もちろん、場合によってはそうした緊張感をもって相対する必要があります。でも、終わった後は、どっと疲れを感じますよね。それだけずっと真剣だったということでしょう。気が張ってばかりいると、「人間」が壊れてしまいます。やはり、ガス抜きが必要です。

わたしの一方的な見方になるかもしれませんが、述べさせていただきます。上記のような問題、ハラスメント等が、ある事件として表面化すると、次に来る手続が何かと考えると、会社、組織体としては、その対策として、同じような問題が起きないように「マニュアル作成」が始まります。そして必要ならば、機械設備等の設置などです。

マニュアル、条例法案も近年の傾向か

目先の問題をどうにかしようとする動きは大事なのかもしれません。大事です。が、マニュアル作成、条例法案等の作成に即着手することが、本当に「人」を生かすことにつながっているのだろうかと思う時があります。先々を見た場合、その法案等が人の動き、新たな発想を、かえって邪魔することになってはいないでしょうか。そもそも世の「規則・法律」は人が生きることをさらによりよく生かすために、人が作成したものではないんでしょうか。その決まりに、必要以上に人が縛られるようになってはどんなものかと思うんですが、・・。と言いながらもルールは、社会の秩序、バランスを保つためにとても大事です。無視していいとは思っておりません。

現在、熊本市が気をもんでいる問題があるといいます。それは、自治基本条例で定める「市民」に外国人が含まれると明記する条例案に関して、撤回する方向で検討し始めたというのです。現行条例は、市内居住者や通勤・通学者を「市民」と定義し、外国人も含むと解釈してきました。ところが、パブリックコメント(意見公募)に対し、条例では言及していない外国人参政権に絡めた否定的意見が寄せられたためです。(南日本新聞2023年4月12日朝刊)

熊本市は「外国籍の国籍を有する者を含む」との文言を新たに加え、市民としの位置づけを一層明確にするはずだったのです。しかし、昨年の12月から約一か月間実施されたパブコメに寄せられた意見の大半は改正に反対する内容でした。でも、その内容は「外国人参政権を認めるのか」という誤解に基づく意見だったのです。成蹊大の武田真一郎教授(行政法)は「選挙制度は公職選挙法で定められ、自治基本条例とは全くの無関係」と力説しています。

絶望して都から去る二人の弟子たちに

今日の福音では、イエス亡き後のエルサレム滞在の意義を見出せない二人の弟子の、彼らの故郷なのでしょうか、エマオに向かう彼らの哀れな姿が描かれています。彼らは「暗い顔」をしていたのです。実に師を失った悲しみ、やるせない気持ちの現われであったでしょう。

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イエスの生前、弟子たちはイエスの力強い説教に惹かれ、奇跡にあこがれ、イエスこそが真のメシアであると頼っていたからです。そして、それは彼らの生きる希望であり、導き手であり、また何にもまして喜びでした。それが、いとも簡単に大祭司や世の指導者たちによって、しかも十字架の刑に処せられたのです。生前のあの力強さを示すこともなくです。全くの無抵抗でした。

弟子たちのイエスへの期待が大きかっただけに、イエスを奪われたことの悲しみ、絶望感も深いものでした。二人の弟子にとって見れば、人生をかけた望みが挫折した悲壮感に覆われた「時」だったのです。その時、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。

イエスが近づいて一緒に歩き、教えた

わたしたちの置かれている状態がどうであれ、苦しんでいる人、元気のない人、悲しんでいる人がいると、イエスのほうから近づいてきてくれるのです。今もなお。この弟子たちがそうであったように、わたしたちにはそれに気付かないのです。そして、気づかない時間が、わたしたちの場合は長すぎるのです。自分が今味わっている苦しみの大きさに、あまりにもこだわりすぎているからです。この状態についてイエスは言われます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、彼らの不信仰さを嘆かれます。

”人間の尺度だけで判断してはならない”

人間の尺度でしか考えられず、判断できない弟子たちの心を嘆かれておられるのです。事実、単に敗北者にしか見えないイエスの姿に、勝利者としてのイエスを発見することができるでしょうか。つまり、死が死ではなく、滅びが滅びでない現実に気が付いていますか、主の復活の主日は、このことをわたしたちに示しています。

つまり、死が、滅びが栄光につながる道なのだという確信を、イエスご自身がその受難を通して示されたのでした。そして、ご自身、復活の栄光、新しい生命に入られました。受難と死で終わらせるのではなく、質的に異なる新たな生命への道を弟子たちに、わたしたちに見せられたのです。これは人間の尺度を超えた新しい「はかり」です。これが今のわたしたちが抱いている「信仰」なのです。

イエス時代の指導者層が、古い人の言い伝えと規則にこだわるあまりの結果が、イエスの十字架刑でした。あまりにも人間的でありながら、情の通わない言動に、イエスは冷たくあしらわれたのです。今もなお、無抵抗のイエスはわたしたちにそっと語り掛けています。そして、その中身を見せてくれるでしょう。目を覚ましましょう。そして、それに気づきましょう。

「わたし」はイエスが示された新しい「はかり」に気づき、それに毒されているでしょうか。

 

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