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復活節第3主日:復活は「教会」誕生の原点。落胆の弟子たちを激変させた!

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

復活節第3主日(B年)の説教=ルカ24・35~48

2018年4月15日

在日外国人の素朴な疑問、日本人の宗教は?

日本に住んでいる外国の方から尋ねられたことがあります。
「日本人はどの宗教を信じているんですかね」と。
どうしてそのような質問をするのかと問い返すと、
「結婚式は教会で行い、子どもが生まれたら神社へお宮参り。そして、死んだらお寺でお葬式と、それぞれに別々の宗教に関わるからです」とおっしゃいます。

確かに、首をひねるたくなるのかもしれません。しかし、日本人にとってはごく普通のこととして、当たり前のことのようです。

外国の文化を受け入れ、内製化することが一因か

日本人は昔から、外国の文化を受け入れて、アレンジすることがうまかったというのです。宗教行事もそれと同じと考えていいだろうといいます。

例えばクリスマス。クリスチャンでない人もケーキを買ってツリーを飾り、プレゼントを交換します。欧米の習慣にならったと思いがちですが、生クリームとイチゴでデコレーションされたクリスマスケーキやチキンを食べるのが定番なのは日本だけでしょう。24日のクリスマスイブが「本番」で盛り上がるのも日本ならではです。また、恋人とデートする日と思い込んでいるとすれば、これまた日本独特です。クリスマスの夜は、欧米では家族で一緒に過ごすのが定番です。

このように、本来は宗教行事であっても、日本流にアレンジされていく過程で、宗教色はどんどんなくなり、宗教とは関係のないイベントとして独自の進化を遂げていった例がたくさんあるようです。バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣やハロウィンの仮装も同じではないでしょうか。

宗教行事をイベント化して楽しむ傾向もある

また、もともと日本人が宗教を「気にしない」こともあるのでしょうか。つまり、日本は仏教国と言われますが、そもそも、日本人は昔からお寺も神社も混同して考えてしまう傾向があります。初詣も神社にだけお参りに行くわけではなく、成田山新勝寺や川崎大師なども毎年多くの参拝客を集めています。豆をまいて災いを払ったり、年の初めに希望や夢がかなうようにお参りしたりという行為、すなわち「イベントを楽しむ」ことが大切であって、宗教が大事なのではないような気がします。断定的な言い方はできないでしょうが、・・。

それでも、日本人なりの独特の宗教心がある

だからといって、「宗教心」はないのかといえば、しっかりとあります。そもそも、「関心を示す」こと自体の中に、その心を見ることができるといえます。確かに「イベントを楽しむ」ことに流されていくとは言っても、本人には意識されていないかもしれませんが、人間の及ばない何かへの「あこがれ」を感じるからこそ「参拝する」のです。「不遜、不純」と言われるかもしれませんが、人間、どんなきっかけが信仰の芽生えの発端になるかわかりません。神の計画の中です。

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イエスさまの弟子たちも同じだったといえないでしょうか。イエスさま生存中に、あれだけ話しを聞き、教えを受け、奇跡を目の当たりにしていたのに、復活の事実を前にして戸惑い続けます。不信の態度をとり続けます。

イエスは逃げ回っていた弟子たちに現れた

確かに、復活ということは信じがたいことです。だからといって、どうでもいい、勝手に自己解釈してもかまわないということにはならないでしょう。むしろ、復活のできごとを通して、これまた、考えられないことが起きてしまった事実を見逃すわけにはいかないのです。復活がなくしては、今の教会の存在もあり得なかったからです。その教会の誕生の始まりを支えたのが、イエスさまの弟子たちでした。あの卑怯な、逃げ回っていた、弱虫の弟子たちです。そして、復活したイエスさまに出会った人たちの証言にも、耳をかすことをしなかった人たちです。

それが、今日の福音の中で、弟子たちは、自分たちに直接ご出現なさったイエスさまを見た途端、会ったことを契機に、目覚め、立ち直ったのです。つまり、イエスさまの「真の正体」に初めて気づいたのでしょうか、内側からの変貌を遂げたのでした。イエスさまの生前、あれだけ共にいて、身近にイエスさまに接してきたのに、気づくことなしに来てしまっていたのです。そして、強靭な信仰者、「使徒」へと変わってしまったのです。

イエスが弟子たちの心を開いて勇気づけた

弟子たち変貌の大きな要因は、何といいましても復活したイエスさま主導による「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」くださったからです。イエスさま復活の大きな意図は、落ち込んでいる弟子たちを勇気づけ、そして、復活の証人として派遣し、教会を誕生させることにあったといえるでしょう。

主の「復活」は、わたしたちの感覚を超えた世界、神への信仰の「源流」であり、そこからこんこんと湧き出る豊かな水が田畑を潤すように、「救い」に渇ききったわたしたち人間を潤す救いの保証です。そして、それは「教会」を通して広がっていくのです。

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