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年間第22主日:「決まり事」には限界がある。絶えず本筋を見つめる努力を

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年間第22主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第22主日(B年)の説教=マルコ7・1~8、14~15、21~23

2021年8月29日

「教員免許更新制を廃止」「文科省決定 講習負担大きく」との新聞見出しがやたら大きく見えます。なぜ「やたら大きく見えた」のかといいますと、わたしは個人的に、この制度に、なにがしかの疑問を抱いている一人だったからでしょうか。

「教員免許更新制」廃止の報道で思うこと

教員免許に10年の期限を設けている教員免許更新制が、廃止されることが決定しました。(南日本新聞2021年8月24日朝刊) 10年ごとに更新講習を受けるため教員の負担が大きく、必要な教員数の確保にも支障が生じていたのです。特に幼稚園ではどこも、教諭・保育士不足で絶えず苦労を強いられているのが現状です。そのためか、既存の幼稚園、保育園では新たに教員を補充出来ないがゆえに、閉園せざるを得ない状況に追いやられている現状もあるやに聞きます。何かおかしいですよね。本来の姿が壊されていったのでしょうか。

特に幼児教育では、子どもたちのより良き成長を願って、大人がそのお手伝いをする、その成長に奉仕することが主眼ではないでしょうか。「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」を見ますと、きれいな文章で「そうだな」と思わせる内容が記されています。これに関して、難しいことは言えませんが、幼児教育に思っていることがあります。

子どもは、どの子も、見て(視覚)、聴いて(聴覚)、触って(触覚)、嗅いで(嗅覚)、食べて(味覚)、物事を会得し成長していきます。要するに、五感を通して知識を増やし、人間として豊かになっていきます。だからこそ、子どもの置かれている環境が大事になってきます。人的環境、物的環境、双方ともに大事な成長への両輪です。中でも、子どもの近くにいる親、また、幼稚園における教師の存在そのもの、そのかかわり方、大人の一挙手一投足は直接に子どもに影響を与えます。成長の「刺激剤」となっているのです。

新制度には時代対応、多様化の観点を願う

中教審の審議まとめ案は、教員が「高度な専門職として、たゆみなく新たな知識技能の習得に取り組み続ける必要が高まっている」と指摘しています。教員免許更新制に取って代わるあらたな仕組みを作るとしていますが、どうなることでしょう。くれぐれもただ「管理する」ためだけの制度にならないことを願います。教育現場の主人公は「子ども自身」です。

更新講習の受講経験がある中学校教諭の本村雅彦さん(53歳)-霧島市―は、研修の新たな方向性を気にしながら「今の講習は教員に役立つのか疑問を持つものもある。スキルアップにつながるような内容にしてほしい」と注文を付けています。

わたしが感じていることは、今の「子育て」に要求されているかもしれないある観点です。それというのは「生態学」です。鹿児島県PTA連合会の太田敬介会長(49歳)も話しています。「時代とともに学びのあり方は多様化していく。子どもだけでなく、教員も保護者も共に学んでいく必要がある」と。したがって、絶えず子育てそのものは動いているし、生きているのです。ということは絶えず変化していくということになります。流動的です。しかも、同姓、同年齢でも、一人ひとりは違います。その中の一つのステージを取り上げて「子どもは・・・である」というような定義づけで済ませていいものか、・・。

自分を振り返ってみたらよくわかるのではないでしょうか。「あなたは○○ような人だよね」と断定されてしまったらどうでしょうか。その一点からのみ見られると窮屈ですよね。自分の一部ではあるかもしれないけど、「わたし」のすべてを言い尽くしてはいないでしょう。

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物事が便利になり、複雑化してくると、「本物」が見えにくくなってきます。そして、仮の姿がさも「本物」であるかのような錯覚になり、それを追い求めていくようになります。経験からわかりますように、また、それに拍車をかける人が出てくるものです。

イエスが指摘した指導層の固定観念とは

イエスの時代にもそのような人がいました。今日の福音書に出てくるファリサイ派や律法学者たちです。「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われたのです。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と。

今のわたしたちの時代にも起こっているのではないでしょうか。人間のどの世界においても、長い歴史を重ねますと伝統なるものが生まれ、その形ができてくるものです。そして、その形を通して安易に人々を育てていこうとする傾向が生まれます。さらに、形だけが独り歩きを始め、人の日常にのしかかってきます。

このように、定められた形や枠の中でしか物事を判断できなくなっていたのが、当時のイスラエルの民のある指導者たちの姿でした。

決まりごとは必要だが、本末転倒に注意

「決まり事」はなくてはいけません。が、しかし、それは人がより良く、安心して、「人間らしく」生きるためにあるものでしょう。それに逆に縛られてしまっては「本来の姿」が覆い隠されてしまいます。人の外面は条件によっていろいろ変わりやすいものです。経済的に、地位的に、その他の条件が外側を作ってくれます。ところが、人間に肝心なものは、その外にあるのではなく「うち」にあるのです、とイエスは言いたいのです。心のうちは変わるものではないからです、と言われます。その心に恵みを注ぎ、清めようとされるのがイエスの思いなのです。こうして「あるべき姿」を取り戻すことができるのです。これがイエスのねらいです。

人が決めるものに完璧はないでしょう。だからこそ、絶えず振り返り、本筋に戻ることに勇気を持ち続けたいです。一人ひとり自信をもって、・・。

 

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