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年間第21主日:「狭い戸口」は自分の身近に。その実りは「慕われる人」

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第21主日(C年)の説教=ルカ13・22~30

2019年8月25日

子どもたちにとっての長い夏休みも、最後の日曜日を迎えました。「思い出作り」とはよく言われることですが、単に「思い出」だけに終わることはないでしょう。記憶に残るだけではなく、心身の成長ある歩みのために、これまでになかった体験を通して、必ず、プラスになったことがあります。今すぐにそのことに気づかなくとも、確実に「わたし」のなかに根付いているのです。いつの日か、それらが何らかの形で花開くときが、必ず訪れます。

夏休み明けに不安定になる子が増えると言うが

わたしの小さい頃は、金銭的に豊かな暮らしではありませんでしたが、生き生きとしていたのではないかと自負しています。近年、長い夏休み明けのころ、多くの子どもたちが不安定な気持ちになることが問題として取り上げられます。不登校の子どもたちが増え、さらに追い詰められた子どもは、命を絶つまでに至るといわれます。その引き金になっているのが、居場所がなかったり、人間関係に苦しんだりして悩み、傷ついていくことだといわれます。

不登校の要因は、家庭環境が36.5%で最多

2017年度の文科省の調査によりますと、不登校の要因が次のようになっています。「家庭状況」が36.5%と最多で、「友人関係」(26%)、「学業不振」(19.9%)が続き、「いじめ」はわずか0.5%だったと。(讀賣新聞大阪本社、2019年8月20日朝刊)

不登校の児童生徒が5年連続で増加し、過去最多の14万人を超えているなか、いじめや家庭状況などの背景を多面的に探ることで今後の対策につなげるため、文科省は来年度、欠席が続く小中学生から学校や教育委員会を介さずに、聞き取り調査を行う方針を固めたようです。

一方で、自殺総合対策推進センターの本橋豊センター長は指摘します。「自殺対策は専門家だけの仕事ではなく、大人みんなの仕事なんだという認識を持つ必要がある。その上で、家庭でも学校でも、自分の命は大切なんだという『自尊感情』を子どもたちが持つように育てて欲しい。信頼できる大人を見つけて話すことの大切さや、信頼できる大人が見つからなかったら地域の相談窓口に相談すること教えてあげてほしい。さらには、『つらい』『苦しい』という時に、助けを求めるサインを出す『SOSの出し方教育』を、全国的に進めてほしいと思う」とおっしゃいます。

調査がデータの収集・整理で終わってはいないか

不登校、自殺等、どのような問題にしても、それらを未然に防ごうとすると、多くの事案のデータを調査して収集し、その対策に取り組んでいくことは、一方で必要であると思います。他方では、これはわたしの偏った見方かもしれませんが、事案の統計を取ってまとめ、整理・作成すること自体が目的になっていないのかなと感じてしまうのです。

生きている人が抱えている問題、ことがらは、一言でまとめられるものではないでしょう。ましてや、いくつかのジャンルに振り分けられるものでもないように思います。それが子どもに関することであれ、大人に関することであれ。肝心なことは、どの視点に立って目の前のことがらに、人に相対するのかが問われることになりはしないかと思うんですが・・。

個々の人を正面から見てしっかりと相対すべき

つまり、その人の「問題」を問題にするのではなく、人自身を問題にする、個々の人を正面に見て、しっかりと相対することが、今の社会、教育界に欠落しているのではないかと感じてしまいます。類別された項目の内容に沿って人を当てはめていくのではなく、新たな悩みに直面しているその人に、その人とともに向き合うことではないでしょうか。データはあくまでも補助的な存在であろうと思います。

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イエスは常に「一期一会」で個人を大切にした

今日の福音から感じることは、イエスの心は「一期一会」の心ではなかったかと思います。今ご自分の目の前にいる「この人」「あの人」個人を、いつも大事になさいます。イエスを信頼できる存在者として慕っていく人々にとって、イエスはまさに彼らの「救世主」であったのです。上述した本橋センター長がおっしゃる、「子どもたちにとって信頼できる大人」であったのでしょう。

そのような人の中の、あるひとりの人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と尋ねてきます。そして、イエスはご自分の目の前にいる一人ひとりに向かってお話しします。「狭い戸口から入るように努めなさい」と。

「狭い戸口」から入るとは、どういうことか?

このイエスの「狭い戸口から・・」という言葉は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7章21節、ルカ6章46節以下参照)というみ言葉を想起させます。「主よ、主よ」という人は、神のことがよくわかっている人です。さらに、それ故に、自分の生活態度は他者よりも律法に適った生き方をしていると、自負している人々です。信仰者としても社会人としても立派な模範者です。

といって、イエスに出会っているかというと、得てして、他者の未熟さを指摘したり、自分の罪深さに気づいていなかったりする人が多く、なかなかです。その上、周りの人から慕われているのかといえば、どこかで避けられる存在者になっていることがあり得ます。わたしたちの現実の生活は、「人びとの中」です。互いに理解し合い、自分にできる精一杯のことを、謙虚に、しかし勇気をもってやってみることではないでしょうか。

各々魅力ある「わたし」を持っています。それらを発揮することを通して、「救い」への道が開かれていくのではないか・・。「狭い戸口」とは、ごく普段やっていることに、生き生きとかかわっていくことにあると言えるでしょう。

その実りは、「信頼される人」に自ずとなっています。

 

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