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年間第20主日:わたしたちは平和の伝達者。日々の伝達訓練機会を大事に

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第20主日(C年)の説教=ルカ12・49~53

2019年8月18日

「探求学習」が広がっているという話題から

「広がる探求学習」のコラム記事が目に入りました。探求学習の成果を多くの人に伝えるには、英語力が必要であるといいます。その実践の場としてGLSがあります。これは、アジアの中高生がシンガポールで探求学習の成果を発表する大会「グローバル・リンク・シンガポール」を指しています。

同大会が、今年は7月26日~28日に、シンガポールの南洋理工大で開催されました。そこに、岐阜県立岐阜高校3年生の村瀬すぐりさん(18歳)と河野有香さん(17歳)が参加しています。(讀賣新聞大阪本社、2019年8月9日朝刊)

発表内容は、お二人の地元に生息する絶滅危惧種の両生類「カスミサンショウウオ」の生殖の仕組みについてでした。二人は部活での研究が国内のコンテストで専門的だと高く評価され、GLSに招待されたのだそうです。英語の発表に備え、本番までの約5か月間、学校のALT(外国語指導助手)と相談して発表内容を英訳したり、約100問の想定問答集を作ったりして臨んだそうです。約10分間の発表はスムーズな英語でこなしたようですが、続く審査員との質疑応答では専門用語が英語でとっさに出ないなど、詰まる場面もあったようです。

英語での発表は上手くできたとしても…

田中茂範・慶応大名誉教授(応用言語学)は「受身で学んでも英語は身につかない。自分が夢中になれる話題でこそ、一生懸命話そうとする」とし、英語を学ぶには探求学習が効果的だと指摘します。学習の参考になる研究論文は英語で書かれていることも多く、自分の成果を広く伝えやすいようです。

審査員で南洋理工大のロウ・キンファット教授も「日本の生徒の研究は詳細まで調べてあり素晴らしいが、英語がもう少しと感じる。訓練の機会を増やしては」と助言しています。

質疑応答の場面でチンプンカンプンに!

自分が伝えたいことが、そのまま相手に伝わるというのは大変です。したがって、まったく同じくということはあり得ないでしょう。わたしの拙い体験ですが、この度の体験をした二人の高校生と同じようなことを、フィリピンに滞在しているときに味わいました。当時、ラジオベリタスの短波放送(日本語課)に関わっていたわたしが、年に一回のラジオ局全体の会議の席で、一年間の日本語課の実績と今後の計画を発表する機会がありました。一方的に自ら準備した内容を伝えることはそれなりにできたのですが、質疑応答になると、専門用語が出てこない、というより、知らないのです。ちんぷんかんぷんの説明になってしまい、その場はそれで打ち切りという結末です。

「伝わる」には受け手側に問題があることも

とはいうものの、「伝える」「伝わる」ということが実現するには、伝える人、それを受ける人、双方の立場が、心が通い合うことなしにはあり得ないのかなと思います。仮に、言葉が未熟で、それ故に表現力が乏しいとはいっても、まったく何も伝わらないということはないように思うんですが、・・。赤ちゃんとの対話をしているお母さんの姿を思います。赤ちゃんが笑顔で反応すると、「伝わった」と思い安堵します。なんとしても、赤ちゃんの思いを「忖度」しようとしているのではないでしょうか。

年間第20主日:わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか
年間第20主日(C年)の福音=ルカ12.49~53 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。

イエスの「嘆き節」の理由は何だろう?

今日の福音で、イエスの嘆き節が聞こえてきます。「火がすでに燃えていたらと、どれほど思っていることか」「わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう」と。これまでイエスが行ってきた宣教活動に対する、民衆の反応の乏しさを嘆いておられるのです。イエスの言葉に耳を傾けながらも、力強い励ましと暖かい慰めをいただきつつ、彼らの反応は、イエスの受け入れ方は、あまりにも自分勝手なのです。彼らの心は地上的であり、人間としての功名心をにおわせる反応なのです。

中にはイエスの人格に魅かれ、イエスにその人生をかけようと決意してくる者もいるにはいました。しかし、イエス理解に関しては、イエスが満足できるような内容ではなかったのです。つまり、イエスを誤解し、挙句の果ては拒否し、抹殺してしまったのでした。彼らは即物的な成功、幸せに燃え、自分たちの生き方に自信を持っていたのでした。これでは、イエスが最も大事にしていた神に対する愛、人々に対する愛が、彼らの中で空回りしてしまうのも当然かもしれません。イエスの人々への嘆き節は、人々の表面は受け入れたように見えて、その実、拒んでいた姿がイエスには見えていたのです。その現象を見ると、謂わば、人間的に見れば、イエスの宣教は失敗とでもいえるのでしょうか。

無理解や拒否にあっても「平和を与える」

それでも、イエスは自分の活動を諦めません。「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。…むしろ分裂だ」とおっしゃいます。しかし、イエスは「わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える」(ヨハネ14章27節)と約束なさっています。それでは一体どちらを与えに来られたのでしょうか。それは、イエスの生き方を受け入れるか拒むのかにかかっているということです。

現代社会の中でも、自ら体験したり、聞いたりすることがあります。洗礼を受ける際に、家庭内で分裂が起きるという話を聞いたりします。イエスの教えを受け入れるが故の対立です。要するに、家族よりもイエスを「少なく愛する」のでは足りません、といわれるのです。(ルカ14章25節~27節参照)

伝える方(イエス)の心、言葉を受ける方(わたしたち)が、どこまでその慮りに気づくかでしょう。しっかりとした受け答えができるために、語学の習得と同じように、日々の訓練の機会を重ねていきたいですね。

 

【8月18日】年間第20主日(C年)の聖書はこちら

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