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年間第22主日:自己否定、愛によって高められるいのちの価値

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年間第22主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第22主日(A年)の説教=マタイ16・21~27

2023年9月3日

誰もが最も大事にしている人の「いのち」

人間は皆、一般的にいえば、自分にとって大事な「こと」、「もの」はそれぞれに何らかの形で保管し、維持管理に配慮します。仮に今、実際に使っている「もの」がある場合だと、より大事に丁寧に使うでしょう。宝の持ち腐れにならないようにします。当然のことながら、それぞれに、大事にする仕方が異なるのではないでしょうか。その人が持っている個性ですね。その上、大事にしている程度によって、ランク付けをする人もいます。それだけたくさん持っているということでしょうね。

中でも最も大事にしているものは、誰にとっても、なんといっても人の「いのち」でしょう。その命が今、おろそかにされ始めているような気がしてなりません。「おろそかにされ始めている」というのは、以前は、そんなに悲惨な状態に命がさらされてしまうことはなかったと思っているからです。というのは、特に、幼い命が死の危機においやられていることです。虐待により、ネグレクトにより、誘拐、置き去りにされたりと、その在り方は様々です。

有識者間で議論が始まった「日本版DPS」

ところで、大きな見出しで「性犯罪歴の確認、最優先は子どもの保護」という報道がなされています。(南日本新聞2023年8月26日朝刊)

この度、政府が検討を進めている新たな制度です。何かといえば、抵抗するすべを知らない年少者を狙ったり、指導的な立場の優位性を利用して性的欲求を満たしたりする大人から、子どもの保護を最優先に、犯罪から遠ざける手立てを講じようとするものです。性犯罪は再犯率が高いといわれています。被害者の心身を深く傷つける性暴力は重大な人権侵害であり、特に子どもを対象にする卑劣さは許されません。

子ども家庭庁の有識者会議が議論しているのは、「日本版DPS」と呼ばれる制度です。つまり、子どもと接する職場、保育所や幼稚園、学校などが、子ども家庭庁所管のシステムで就労を希望する人の性犯罪歴を確認し、前歴のある人は就職できない仕組みを想定しています。ただ、憲法が保障する「職業選択の自由」や「プライバシー権」への目配りを忘れてはならないと思います。

人権感覚を高める機会になることを願う

現時点では、性犯罪歴として不同意わいせつ罪など刑法犯が中心となる見込みです。犯罪の種類はもちろん、刑事手続きのどの段階に至れば前歴となるのか、明確に定めておく必要があります。また、対象職種の範囲も論点となるでしょう。まだ、議論の余地が残されています。一つしかない生きている「いのち」、その価値をどの視点から評価するのか、・・。

一方で、性犯罪歴確認制度の論議を、弱者の人権侵害に対する社会の感度を高める機会としていければ、この上ないことです。

イエスの十字架への道は、神が決めた計画

今日の福音は、「十字架」に関する価値観の違いから、イエスとペトロの対立が記されています。つまり、ご自身が十字架にかけられて殺される、と告げるのです。十字架の死、これはかなり屈辱的なことです。そんなことがあってはいけないのです。ペトロはすぐに反応します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスの受難と死に関する弟子たちへの予告です。

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そんなペトロに対してイエスは叱りつけます。しかもかなりきつい言葉を掛けます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。サタン呼ばわりされているんです。つまり、ペトロはイエスの行く手を阻んでしまう邪魔者になってしまっているのです。

この話の前には、フィリポ・カイザリアにおいて、ペトロは真の信仰告白をしてイエスに認められています。その直後に、今度は「サタン」です。褒められたりけなされたりです。イエスの十字架への道のりは、すでに決められた神のご計画なんですね。その計画の実現を邪魔する者はサタンなのです。十字架への歩み、それはいのちを得る道です。だからイエスは続けます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と。

当時は、ペトロでさえも理解できなかった

イエスのこの話を聞いてペトロや他の弟子たちは、どれだけの理解をもって受け止めることが出来たのでしょうか。おそらく、わかったようでわかっていなかったのではないでしょうか。わたしたちもよく体験しますよね。何となくわかったような気分になってしまって、「わかりました」と答えていることってよくある話です。後で困るのは、わかっている気分に浸っている本人ですけど。

やはり、当時の人々にしてみれば、十字架にどれだけの価値があるのかって思ってしまいます。弟子たちも同じでした。ペトロがイエスを諫めたくらいですから、・・。のちにパウロも言っています。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と。(Ⅰコリント1章22節以下参照)

助け合うときは自己否定、自己犠牲が必要

実際にわたしたちの日常生活の中で、助け合って生きようとすれば、どうしても自己否定、それに伴う自己犠牲がついてきます。そこに愛があるからです。イエスの生き方、十字架への道のりは、わたしたち人間への愛に満ちた、自らの生きる権利までも否定した道のりだったのです。同時にそれは復活の命につながるものでした。

イエスはペトロを礎として教会を建てる、とおっしゃいました。真の信仰を持つペトロがいれば、人として汚れたペトロもいます。その上に建てられる教会も、当然ながら両面を備えています。イエスはこれらをすべてわかった上で、十字架の道を選ばれたのです。

人間共同体には、乳飲み子からお年寄りまで、年齢幅の広い一人ひとりが生きています。イエスはこの一人ひとりのために十字架の道を選ばれたのでした。大事なわたしたちの「いのち」が救われるために。

そして、ペトロたちは、聖霊の助けがあって十字架の価値を理解できるようになりました。わたしたちも日々、聖霊の恵みを真剣に願いましょう。きっと、・・。

 

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