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年間第23主日:教会はイエス中心の集い。社会や教育現場の真ん中には?

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年間第23主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第23主日(A年)の説教=マタイ18・15~20

2023年9月10日

旧態依然の教育現場「させる体制」に疑問

わたしは今、奉仕の場、「教育現場」におります。そこでは、さまざまな課題、新たな問題の発見があります。何についてかと言われますと、もちろんのこと、「子どもたち自身」と、その「育ち」に関することです。

世の中は、今や人口減少に由来するいろいろな問題が関連して起こってきます。その中でも気になることがあります。それは長年、わたしの中では問題になっていたもので、学校教育の世界における「『させる』指導」です。

これだけ「子ども」についての研究が、医学的にも、いろいろな分野においても進んできて、新たな発見があるにも関わらず、それらは何ら「プラス」材料として取り入れられることなく、言葉、表現としては取り入れられても、旧態依然の「させる体制」が維持されてきたことです。わたしが体験してきた児童・生徒時代とあまり変わっていないのではないかとさえ思っていました。だからと言って、専門的に権威ある意見を述べることはわたしにはできませんが、素朴に感じる疑問を分かち合うことは出来ます。

『させる』が不登校生徒増加の一因では?

そこで申し上げますと、これまで「『させる』という旧体制」を維持することによって、不登校の生徒が増加してきたのではないかと感じているのです。端的にいえば、「学校に登校させる」ということです。「学校に行くこと」が目的になっているのではないでしょうか。それだと、ただ軌道修正をするだけの話で終わってしまいます。生徒はわがままで行かないのではないのです。その理由も納得できる要因、子どもたちの心的状況、精神環境が少しずつわかってきています。そして、大事なことは、大人が、教師が思っている以上に、子どもは成長しているということなんですよ。

『させる』⇒『支える』転換に期待しつつも

「変わる生徒指導」「『提要』12年ぶり改訂」「『させる』 から 『支える』へ」」の見出しが気になります。(南日本新聞2023年9月4日朝刊)教員用の手引書の文言が変わっても、大事なのは、それを運用する人です。確かに文言は変わったが、それだけでは何も変わりません。その中身を実現するのは人、教師だからです。

教員用の手引書「生徒指導提要」の改訂に伴い、国立教育政策研究所・高橋典久総括研究官の講演会が開催され、その要旨が紹介されています。

「従来の指導は『させる』指導になっていた。学校が荒れていた頃は、問題行動などで逸脱する子どもを修正することが求められた。これからは、子どもたち自身のよりよくなろうとする力を『支える』指導でなければならない。

不登校は増え続けており、未然防止に力を入れないと厳しい。昔のような『学校に行くのが当たり前』という考えは薄まっている。子どもにとって魅力ある学校とは何か、問い直す姿勢が必要だ。いじめも、被害者を守るだけでは減らない。いじめをしないよう人権意識を高め、多様性を理解し、共生社会の一員となる市民性を育むことだ。」

問題への対処法に終始している感が拭えず

この要旨を見ても、何かいまいち、わたしの中では落ち着かないんですよ。やはり、「子ども」は対象になってはいるんですが、子ども自身を「どうにかしなくては」という視点に立っているように見え、子どもを外側から見ているような気がします。いわゆる子どもが「引き起こす」問題に対する「対処法」に終始してないでしょうか。さらには、高圧的な雰囲気の感を禁じ得ないです。

「権威」の力は、自ずとじわじわと滲み出てくるものです。その上、「権威」は威張るためにあるのではなく、他者によりよく奉仕するためにあるものです。

日本の教会が存在感を現わすときと言えば

ところで、日本の教会は、大きな社会の中でまさに一粒の砂のようにちいさな存在でしかありません。目立たなくて、存在そのものすら、在るのか無いのかわからないほどの存在です。それでも確かに存在しているのです。それを確認できる時というのは、「人間の救い」にかかわる事象が起こったときです。つまり、罪を犯した人に対するかかわり方を伝える時です。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

今日の福音の始まりにある通りです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と。

罪を犯し、過ちを犯す人に対しては、できる限り努力しなさいということです。どうしてかといえば、神は罪びとを放っておくことが、そのみ心ではないからです。イエスの心でもないのです。神は罪がどんなものなのかをよく知っておられるからです。その人をダメにするのです。神から遠ざけてしまい、その人の中から神の輝きを失くしてしまいます。実に、これらの小さい人が滅びるのは天の父のみ心ではないのです。

忠告の目的は兄弟を得るため。陥れではない

したがって、そうです。「忠告する」のはその人を陥れるためではなく、「兄弟を得る」ためなのです。そのために神は御独り子をこの世に遣わされたのです。そしてイエスは、罪ある世界を救うために十字架の道を歩まれました。「忠告する」ことは、まさしくその人を神の思いへと向けさせるためなのです。繰りかえしますが、「忠告する」ことは、非難するためでもなく、吊るし上げるためでもありません。

そして教会が下す判断は天の父の判断を表します。地上にある教会であるわたしたちですが、天上の父とつながっているからです。つまり、すべてをつなぎ、また解くという教会の権威は、人間の力によるのではなく、教会の中心にいるイエスと天の父に由来します。そして教会は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあるように、イエスが中心にいる集いなのです。

今なお続いています。そのイエスは「インマヌエル(神は我々とともに)」(マタイ28章20節参照)として、いつもわたしたちの集いの真ん中にいらっしゃり続けるからです。

「子ども真ん中教育」って何でしょうか、親身になって取り組みたいですね。

 

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