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年間第4主日:弱さ&脆さを帯びて生きる生涯、その後ろには神の愛がある

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年間第4主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第4主日(A年)の説教=マタイ5・1~12a

2023年1月29日

年明け早々から、悲しい事件が次から次へと起こります。それも、「人のいのち」にかかわる、なんとも言えないむごく、悲惨な出来事です。

弱さゆえの失敗、過ちは誰でも覚えがある

最近の日本の事件事故は「いのち」に関することが多く、例えば、幼児虐待、肉体の苦痛がともなう体罰、親が子を、子が親を殺害する等、人の「いのち」そのものが軽視されているのではないかと感じさせるようなものばかり。

「博多女性刺殺」「13歳少女が母親殺害か」「7歳女児殺害疑い母親逮捕」「狛江強殺」「自殺者数高止まり」等、人の命に関する報道が日替わりになされています。(南日本新聞2023年1月18、20、21日朝刊) 第三者が軽々に口に出して何かを言うことではありませんが、その背景にはいったい何があるんでしょうか。

加害者、被害者それぞれにかけがえのない家族、仲間がいることでしょう。その交わりの中で培われてきた「人の命の重さ」を、一人ひとりは十分に心得ているのではないかと思います。皆が「一生懸命生きているのだ」ということは、どこにいても、どんな仕事をしていても、みなに言えることです。さらに等しく言えることは、みなが弱い存在者であるということです。弱さゆえに、しでかしてしまう失敗、過ち、それらについてもみなに覚えがあることでしょう。しかも、何回も繰り返してしまうのです。特に、利害がわが身に及ばないと、平気で、また同じ失敗を繰り返してしまっているような、・・。

「貧しい人」についてのイエスの教えとは

そして日常、自らが失敗したことを、時として、他人のせいにしていないでしょうか。極端な言い方をすれば、自分が何かをするたびに失敗を繰り返し、また、その度に、その責任を他人に転嫁するようであっては、「人」として薄ぺらな人に成り下がります。自分の成長を、自ら妨げていることになるからです。自らを落とし穴に落とし込んでしまいます。なんとも悲惨な状態です。それまでの友も遠ざかっていきます。なんとまあ淋しい、その上、実に「貧しい人」になってしまいます。その後のその人の歩みはどんなになるのでしょうか。

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きょうの主日は、「貧しい人」について、イエスは語ります。キリスト教信者の方には「山上の説教」として知られている場面です。今日の福音書に出てくる言葉を直訳すると、「霊において貧しい人」となるそうです。つまり、生きる術をすべてはぎとられている人、永続する悲惨な状態に置かれ、それを乗り越える力を自らの中にもたない人々のことを指す表現のようです。

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(Ⅰコリント1章27~28節)

このようにパウロはヘブライ人の「貧しさ」について書きしるしています。たしかにいつの時代もわたしたちの生きる現場は、厳しく、その上過酷なものです。能力のある人、処世術の上手い人、富と地位に恵まれた権力者が、社会の中でも牽引者となり、それ以外の人たちは、大げさに言えば、なす術もなく、おとなしくしている以外に道がないような状況に追いやられています。そして、なかなかそこから這い上がることはできないのです。そして、苦しい生活を余儀なくされます。彼らの心は傷つき、いつも不安に襲われ、ついには絶望の谷にのみ込まれ、人生を諦めてしまう人もあります。

現代は緊張の連続、精神不安な人が多い?

一方で、今は権力を持っている人でさえ、ちょっと気を抜けば、油断をすれば自分も落伍者になってしまう可能性を秘めている社会でもあるのです。絶えず緊張の連続というか、それよりも、ストレスの連続と言ったほうがいいのではないでしょうか。だからこそ、現代の特徴ともいえる精神的に患いを抱える人が以前にも増して気がかりになります。

事実、人間の世界では、「世の愚かな者」「世のなきにひとしい者」は、住む家もなく、職業にも就けず、人々の蔑みの対象となっていきます。でも、そのような苦しみのどん底にあっても、絶望せず、自分の弱さに力を見出す人がいるのも、これまた事実です。今の自分の生きる元気、活力を人間的な打算に求めるのではなく、神に求める人です。イエスがきょう福音書でおっしゃっている「心の貧しい人」とは、このような人のことだというのです。

弱さ、脆さは生涯ついて回る、だからこそ

しかし、現実の「わたし」はどうでしょう。自らのもろさ、苦しみ、弱さを体験している現場では、その「苦しみ」「もろさ」ゆえに体験しているその中味が気なってしょうがないのが正直なところでしょう。その状態で、自分の心を高く神の方に向けることなんて、とてもできるものではない、と言いたくなります。また、事実、生きる姿でそのことを言い続けてきた生き方だったような気がします。いや、きっとそうです。自分に襲いかかってくる苦しみの真っただ中にあって、「神」の「か」すら思い出すことができないほどに、苦しみの虜になっているのですから、・・。

そこで、さらに推し進めて振り返ってみますと、「弱さ」「もろさ」は、生きている限り自分についてまわるものです。だとすれば、「苦しさ」の体験もなくなるものではないのでは、・・。ということは、人生に苦しみの体験は不可欠である、ということではないか。だからこそ、それを乗り越えるところに「真の幸いな人」が誕生するのだ、とイエスは教えておられるのでしょう。苦しみを乗り越えたときに、神の愛が、恵みが「わたし」の中に流れ込んでくるんですよ、と教えていらっしゃいます。

過去に体験した自分を振り返りつつ、今もいつも、神に心を挙げる「わたし」を絶えず求めましょう。そして、いつも神の愛に支えら、そのことを感じつつ、・・。

 

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