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年間第23主日:一粒の砂のようであっても、神は「わたし」を気にかける

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年間第23主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第23主日(A年)の説教=マタイ18・15~20

2020年9月6日

「僕はバリバリの発達障害!支援の仕方・され方」と題し、講演会が開催されました。場所は鹿児島市の川商ホール(市民文化ホール)です。講演者は山口県出身のフリーライター大橋広宣さん(56歳)です。(南日本新聞2020年8月31日朝刊)

自己肯定感は他者の肯定でしか育たない

大橋さん自身は、注意欠陥多動性障害(ADHD)の傾向がある学習障害者です。幼少期から整理整頓や集団生活、勉強が苦手で、小中学生のときにはいじめに遭ったといいます。発達障害への無理解からか、教諭からも「努力が足りない」「分かろうとしない」と責められました。

ところが、漫画やアニメなど好きなものはすぐ覚えました。親や中学校の校長ら理解者との出会いが、大橋さんの長所を伸ばすきっかけになったのです。大橋さんは講演の中で、「父親から『自分で自分をいじめることが一番悪い』」と諭されたということを語っています。さらに、強調されたのは「夢の実現に50年かかったが、理解者に救われた。自己肯定感は他者の肯定がないと育たない」ということです。今は、映画コメンテーターやテレビ番組制作、映画製作に取り組んでいます。

大きな社会の中で、多くの人が生活している中で、一人ひとりはそれぞれに異なった問題、課題を抱えて生きています。ある人にとっては人間関係からくるトラブルであったり、また、ある人は、自らがかかえている病であったりと、置かれている環境が違うと抱えている問題等にもおのずと違いが出てきます。

他者には小事が当人には一大事のことも

それこそ、ある人から見ますと、「わたし」の問題は、広い砂浜の砂たったの一粒に過ぎないじゃない、という風に見え、おっしゃるかもしれないんですが、本人にしてみると大変なことなんです。

つまり、感じ方の違う人たちに囲まれているといっても過言ではないでしょう。育ちの環境、いわゆる、その影響を受けたであろう人的、物的環境等の違いからくる「差」が問題の評価、判断に影響してきます。善悪、優劣の問題ではありません。単に「違う」だけなのです。なぜって、人間はもともと良いものを選択し、受け入れていく存在者だからです。したがって、自分が受けたものより、よりいいものを発見すると、そちらのほうに向かい、それを取得していきます。こうして、個人が、社会が自ずと浄化(変化・成長)されていくのです。されど、自らのアイデンティティーは保ったままにです。

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「兄弟があなたに対して罪を犯したなら…」で始まる今日の福音。イエスは罪を犯す者に対するかかわり方を示されているのでしょう。つまり、罪は曖昧のまま残してはいけないということです。罪は糾弾されないといけませんが、その人を放っておくわけにはいかないよ、ということです。丁寧に接しなさいとおっしゃいます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18章14節)からです。

イエスは罪ある人を滅びから救うために

まさに、イエスは罪ある人をその滅びから救うために、この世に来られたのです。罪ある人々を救うために十字架の道を歩まれたのです。すなわち、イエスの生涯そのものは、すべて罪ある人々の救いのためでした。だから、罪をみすみす見逃してしまうことは、イエスがなさった努力(説教もその他の活動も)が無に帰してしまうことになります。

一人の「わたし」だけでなく、わたしたちが共同体として、その使命を果たし続けていくためにも、どうあったらいいのでしょうか。罪ある人を放っておかないためには、イエスの十字架の贖いの重要さを、共同体としてもしっかりと受け止め、分かることでしょう。それも、「わたし」の日々の生き方の中で、・・。生きていく随所で、罪の神秘、十字架の神秘、神の愛の神秘を黙想し、人知でははかり知れない神の恵みに対する確信を深めていきましょう。あの場面この場面で、神の関与を思い巡らし、感じていくことでしょう。特に、精神的にきつい時、それができると楽になります。明るくなれます。生きる元気をいただけます。

悔い改めを必要とする人への働きかけを

そうすることによって、勇気をもって、罪ある人に向かって語ることができます。それは、罪ある人を責めるためでなく、敵対するためでもなく、あくまでも、その人を生かすためです。仮に、その人に「悔い改め」が起こらなかったとしても、失望せず、その後も働きかけていくことでしょう。「わたし」自身も罪びとです。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)とあるように、わたしたちの共同体(教会)は、イエスが中心にいる集いです。どんな小さな一人でも滅びることがないようにと願う神の思いが実現されるために、わたしたちは悔い改めを必要としている人への働きかけを、今日もするように求められています。どんなに小さな一粒の砂のようであっても、神は心にかけてくださっているのですから、・・。

学習障害者の大橋さんが、よき理解者に助けられ、その長所を伸ばすきっかけをつかんだように、悔い改めを必要としている人にも、そのきっかけを掴んでもらえたらいいですね。わたしたちは「他者」をどこまでも必要としています。

神のわたしたちへの愛は絶対です。

 

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