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年間第24主日:日常に生きている「わたし」の中に育つイエスの心

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年間第24主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第24主日(A年)の説教=マタイ18・21-35

2020年9月13日

約30年余り前の話になります。まだ、わたしの父親も元気で、あちらこちらと行き来し、定年後を楽しく過ごしておりました。その昔、自分(父)が若かったころに行ったことのある場所を、再度、訪ね歩き回っていたのです。そして、行ってはたくさんの土産品を持ち帰り、それらを孫たちにあげていました。

孫の喜ぶ顔を見て充実感を覚える人びと

孫たちのことを思ってあげているというよりも、もっぱら、自分の気分を満足させるためにあげているような感じです。そうです。「あげること」に楽しみを感じ、満面に笑みを浮かべ、それまでに見たこともない笑顔です。ましてや、自分の子どもにすら見せたことのない「笑顔」だったと、後で母親に聞いたことです。

年老いて孫が生まれると、特に、おじいちゃんにとっては「孫は子より可愛い」というように、孫の可愛さは格別のようですね。今のおじいちゃんたちにとっても同じことが言えるようです。わたしの知り合いの、ある若い「おじいちゃん」も同じようなことを言っておられます。時代は変わっても人間関係(祖父と孫)の在り方はそうそう変わるものではないということでしょうか。

72歳祖母が4歳の孫と手紙のやり取り

実は、「孫の手紙」と題して、元山ちゑ子さん(72歳)が投稿している記事を見つけました。(南日本新聞2020年9月4日朝刊)4歳の孫娘さんの話です。

その中身は、一年ほど前から、お孫さんが平仮名を読めるようになったというのです。それを機に、ちゑ子ばあちゃんはその子に届く初めての手紙を書こうと思い立ったのです。大きな字で名前を呼びかけて「また やまがわにも きてね」といった簡単な手紙でした。ところが、しばらくして思いがけなく返信が来ました。「ばあちゃんに、手紙書く」と言い出したらしいのです。お孫さんからの手紙は○や▽の記号が並んだようなものです。ちゑ子ばあちゃんは、この展開を喜んでいました。

そのお孫さんが、最近上手に字を書けるようになったのです。「じいちゃん、ばあちゃん、だいすき」などと書いた手紙がよく届くようになりました。自分の名前を書いてあるだけのときもありますが、それでも、「ジジババはなんとうれしいことか」。文章としてはまだまだとはいっても、ほほえましいです。「さあ、わたしも手紙を書こう。あの子にならって折り紙も忍ばせよう。カエルにしようか、紙風船がいいか。ばあちゃんの楽しいひとときである」と結ばれています。

人は皆、生来「人間らしさ」を備えている

人は誰でも、普段は表に見せない、心の奥深くにある「自分」を持っているものではないでしょうか。それは、何か特別なことをして会得されたものでもなければ、生来一人ひとりがいただいている「人間らしさ」なのではないかと思うのです。表現の仕方は一人ひとり異なるかもしれませんが、それは、だれもが抱いている「やさしさ」であるといえます。そうです。

人間は本来、自分が持っている、いただいているタレントに気づいていないのです。そのタレントを有効に使うことによってさらに輝いていくのに…。

特別な修行をしなくても徳の実践は可能

信仰者であるわたしたちも、自らの信仰者としての成熟を望むとき、なにか特別な修行をしないと、徳の実践を目指していかないといけないと思いがちになりませんか。それによって、自分がやっている苦行や犠牲、長い祈り、ロザリオの祈りなどを他者がしていないと、自分が実践していることを基準にして、その人を判断し、非難しがちになってしまったりしませんかね。大きな誘惑です。

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ところが、今日の福音書が強調するのは、人間の徳は、ごく日常的な出来事の中の、また、ごく日常的な心がまえの中に実るものであるということです。わたしたちはどこにいても、誰かと交わり、誰かを必要としています。その限り、人と絶えずかかわりを持っています。そこで大事になるのが人に対する基本的な心がまえではないでしょうか。別の言い方をすれば、その人の「いのちに奉仕する」ことだからです。つい身勝手な、わがままな言動に走りがちなわたしたちです。だからこそ、日常を無視しては自らの成長はないということです。共に協力しあってこそ、自らが高まります。そのために「ゆるしあう心」は大事です。

やさしさは日常的な出来事のなかでこそ

それは、相手を大事にしていくことにつながります。今日の福音書で、一万タラントンの負債をゆるしていただいた人がいます。この人がゆるされたのは、王の常識外れの心がそうさせたのです。福音書では「憐れに思って」とあります。これはイエスの心の特徴です。いわゆる、いのちに対する「同情、やさしさ」です。人の痛みに対して、見て見ぬ振りができないのです。損得をぬきにしていのちのみじめさに揺り動かされたのです。

こうした「やさしさ」は、日常の生活から離れては、何か特別なステージを設け、体験しなければ得られないものではありません。通常のごく日常的なできごとの中でこそ味わい、得ることのできる心です。

「孫の手紙」の中のちゑ子ばあちゃんも、お孫さんの姿に触発されて、もともとあった自分の「やさしさ」が表面化したのでしょう。誰にでもありうる日常光景ですよね。

それがイエスの心につながっていくのではないでしょうか。

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