『年間第25主日』の聖書と説教はこちら

年間第24主日:兄弟があなたに罪を犯したら、七の七十倍までも赦しなさい

この記事は約3分で読めます。
年間第24主日(A年)の聖書

年間第24主日(A年)の聖書

年間第24主日(A年)の聖書=マタイ18・21-35

2023年9月17日

18・21〔そのとき、〕ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。

24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。

25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。

33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

2023年9月17日の説教

年間第24主日:お互いの命を慮るやさしい心を大きく、豊かにしたい
わたしたちはお互いが慮る心を持ち合わせることによって、断ち切れそうになっているかもしれない関係を修復し、交わりを損なうことなしに保たれていきます。実に、それは神からの恵みです。神の前に「仲間」として生きることになり、人を心から赦していくように招かれているのです。

2020年9月13日の説教

年間第24主日:日常に生きている「わたし」の中に育つイエスの心
「やさしさ」は、日常の生活から離れて何か特別なステージを設け、体験しなければ得られないものではありません。通常のごく日常的なできごとの中でこそ味わい、得ることのできる心です。

2017年9月17日の説教

年間第24主日:あわれに思うとは、見て見ぬ振りができない神の心
多くの人が、日常生活を離れた特殊な生活現場で生きているわけではありません。ごく日常的な生活、心がまえの中にこそ、聖なる人になるべき現場があると、今日の福音は示してくれます。

2011年9月11日の説教

年間第24主日:信仰生活と日常生活に遊離はない。日常の行いが大事
今日の福音が強調しているのは「ゆるす」ということです。わたしたちの日々の生活は、このゆるしを前提に織りなされているといっても過言ではありません。それだけに大切な日常の心がまえとなります。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>シラ書

(シラ27・30~28・7)

憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。
罪人にはこの両方が付きまとう。
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、
願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、
どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、
どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、
憤りを抱き続けるならば、
いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、
他人のおちどには寛容であれ。

第二朗読>>使徒パウロのローマの教会への手紙

(ローマ14・7~9)

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

日曜日の聖書
スポンサーリンク
シェアをお願いします!
この記事を書いた人
yaziro

このサイトの運営者yaziro(ヤジロー)➡ カトリック教会のこと、デジタルのことに関心を持つ iPhone 好きジイジです。
最近はWordPress、Line、Web会議システム、YoutubeやOBSの活用法に没入中!
yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

yaziroをフォローする
教会のITサポート:826村

コメント

タイトルとURLをコピーしました