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年間第25主日:神は人のみじめさに敏感、神の秤は人に対するあわれみ

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年間第25主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第25主日(A年)の説教=マタイ20・1~16

2020年9月20日

時の流れの中で、次から次へと、わたしたちの生活に密着した新しいものが発明され、わたしたちの生活は便利になっていきます。それとともに、新たな問題、課題も出現します。こうして、今までの慣習、定説等が少しずつ変化し、改善もしくは撤廃されていきます。そして「昔は○○だったな」とか「以前は、○○といわれていたのに、・・」など、時代の変化を物語る言い回しが廃れていきます。そして、個人的には「年を取ったものだな」という実感がこみ上げてくるのです。このようにして、その時代を言い表していた言葉、的確な言葉の表現も、「死語」となっていくのでしょうね。

児童虐待という言葉を切り口に考えてみたい

ところで、最近よく目にし、耳にするようになった表現に、「児童虐待」という言葉があります。みなさんは「児童虐待」という言葉を聞いて何を思い浮かべますでしょうか。親から暴力を振るわれてあざだらけになったり、きちんとした食事を与えられずにやせ細っている子どもをイメージする人が多いのではないでしょうか。しかし、そのようなイメージと異なるために、「虐待」と気付かずに被害に遭っている子どもがたくさんいるのだそうです。(南日本新聞2020年9月16日朝刊)

子どもに過剰な期待をかけて無理やり勉強させることもその一つです。10年ほど前から「教育虐待」と呼ばれるようになっています。すべては「子どものために」と励ますのですが、次第にエスカレートし、テストで高得点を取らないと罵声を浴びせるようになっていくのです。多くの親御さんがその経験をしてきたのかもしれません。

子どもに過剰な期待をかける虐待もある

それがやがて、子どもの意志を無視し、医者や弁護士といった親が望む職業に就くことを強制するようになっていきます。つまり、いつの間にか子どもを自分の支配下に置いてしまうのです。その結果、精神的に傷つき、自傷行為や解離性障害などの問題を抱えてしまう子どもも少なくありません。

文教学院大教授の甲斐田万智子さんは「しかし、これは何も親だけの問題ではありません。過度に競争的・強制的な日本の教育システムが背景にあると指摘する専門家もいます」と。実際、国連子どもの権利委員会からも度々改善を求められているそうです。

現代人は神との関係を歪めて理解している?

わたしたちは、今生きている社会の状況に影響され、人間の置かれている環境がそれによって変化し、必然的に左右されてしまいます。その積み重ねによって出来上がった一つの思想、そして、思い込みが、「わたし」の固定観念としてつくり上げられてしまうのです。そういうことってないでしょうか。それによって、自分の心の自由をせばめ、人との関係、ましてや神との関係を身動きできない程にゆがめていないでしょうか。

今日の福音書は、わたしたち人間の常識を超えた神の豊かな奥深いやさしさを示しています。

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今のわたしたちに言えることかもしれませんが、「わたしなんて○○するにはふさわしくない」と思い込むことってないでしょうか。ましてや、神の前に出て、恵みを願うなんて、とてもじゃないけどその資格があろうはずもないと思い込み、教会からも、信徒同士の交わりからも逃避してしまっていないでしょうか。しかし、こうして人間がご自分から遠ざかっているさまを見て、苦しむのが神の心なのです。人間の弱さも、欠点も、ましてや罪も、神に近づくために邪魔になるものではないのです。妨げにはなりえないのです。

今日の福音書は、人間を大切にする神の心が示されています。「たとえ話」の頂点は、雇い主が常識外れの行動に出るところにあります。つまり、朝から働き続けの男たちにも、夕方5時から畑の仕事を始めた男たちにも、同じ一日分の賃金を雇い主は支払ったのです。当然のごとく不平が出ます。が、それ以上の叙述はありません。つまり、不平が出た人々にとっては、自分たちが描いた賃金と、受取った額のかなりの違いに愕然としたのでしょう。

神は決してエリートだけを救う方ではない

たとえ話の雇い主は神、不平を言う男は当時のファリサイ派の人たちと考えていいでしょう。彼らは、どこまでも、自分たちが描いた神の姿にこだわります。神は「聖なる方」であるから、汚れ切った人間は神に近づくことはできない、ふさわしくないと考えているのです。そこから、弱い人、罪びとである人に対しては厳しい態度を取り続けるのです。彼ら自身の中から人に対するあわれみ、やさしが消えていきます。生きていながら、そのどん底にある人々を救う神の姿は、彼らの中にはないのです。逆に、立派な人、強い人、いわゆるエリートだけを救う神と考え、神の真の姿がゆがめられてしまっています。

なんといっても、神は人間のみじめさに反応してくださる方です。罪を犯す人間のみじめさに敏感になってくださる方です。神のはかりは「あわれみ」なのです。人間は自己本位の楽しみだけにとらわれがちとなります。だからこそ、神はわたしたちを見捨て置き出来ないのです。そして、イエスを十字架上に渡されたのです。

自分の思い込みにこだわると本物を見失う

現代社会でも、あまりにも自分の「思い込み」にこだわると、本物を見失い、無意味にしてしまう危険があります。

目の前にいる我が子の真の姿を見失うことのないように、新たな動き、現象にも目配り、心配りを怠ることのないようにしたいものです。子どもの変化、成長はわたしたち大人が思っている以上の速さと中身があるのです。

 

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