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年間第25主日:「この世の富」は友を作るため、他人のために用いなさい

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年間第25主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第25主日(C年)の説教=ルカ16・1~13

2022年9月18日

人間の生きる社会で、一人ひとりは何を大事にしているのでしょうか。各自の生き方によって、そのものも変わってきます。でも、いつの時代も、お金は必要とされ、それだけに大事なものであることに変わりはないでしょう。

元理事を中心とする「五輪汚職」は全く残念

したがって、「金」にまつわる事件が大小を含め、いつの時代にも問題になります。最近、誰もが悲しい、さびしい出来事として感じているのが「五輪汚職」ではないでしょうか。東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件で、その中心人物になっているのが、元理事を務めていた人です。その方は、東京五輪大会組織委員会の元理事です。(南日本新聞2022年9月13日朝刊)

大会スポンサーの出版大手KADOKAWAからの資金提供が、賄賂であるとのことで再逮捕されたのです。つまり、元理事がその資金提供を提案したことを示すとみられるKADOKAWA側作成の資料が残っていたということです。東京地検特捜部はこうした資料に基づき、KADOKAWAの資金提供のスキームは元理事が主導したとみて捜査しています。その総額は計約7600万円がスポンサー選定の仲介手数料で、賄賂に当たるとみています。KADOKAWAは2019年4月にスポンサーに決まり、大会の公式ガイドブックなどを出版しています。元理事は再逮捕容疑について「身に覚えがない」と否認しています。

お金の力は甚大。人の動きや質まで左右する

なんと言っても、「お金」が持つ魅力は大変なものです。お金によって人が動き、しかも、それまでとは大きな違いを感じさせるほどの変わりようで、人の「質」をも変えてしまうほどの魅力と力を秘めています。それを巧みに操るのもこれまた「人」です。だからこそ、「お金」はやっかいなものであり、一方で、なくてはならないものなのです。要は、その使い方ですよね。うまく使えば資産を増やすことができます。そうでない使い方をするとき、破滅、自己破産を招いてしまいます。そこには天地の差があります。また、蓄えた資産を、さらにどのように使うか、どこかで誰かが喜んでくれるように、絶えず創造と工夫が求められます。

今日の福音書では、そのお金の使い方をイエスに褒められ、弟子たちに諭されるイエスの姿が描かれています。今日の福音は、なんとも受け止めにくい話、すんなりと納得がいかない話の内容のような気もします。というのは、わたしたちが常識的に考えて、納得のいく話になっているでしょうか。

イエスが不正な管理人を褒めのは、なぜか?

主人の財産を管理する男が、使い込みをやったのです。その上、日頃から不忠実で、いい加減で、でたらめな管理をしていたからです。そして、この男が取った不正な振る舞いを、怒るどころか褒めているのです。納得できますか。ここに、たとえ話の解釈の難しさがあります。イエスは何を伝えたかったのでしょうか。しかも、この話は自分を取り囲む弟子たちに向けて語られたものであることにも注目しましょう。

彼らは、イエスの人となりの魅力にひかれて、イエスのもとに集まってきていた人たちです。したがって、一般の民衆に対してよりも、厳しい態度で臨んでいるイエスの姿がそこにあります。つまり、イエスは管理人の「不正」を見習いなさいと言っているのではなく、救われるためのぎりぎりの状況の中に追い詰められ、そこを切り抜けるために、恥も外聞も捨てて生き抜こうとしている管理人の「切実さ」をほめているのです。逆から言えば、弟子たちには自分たちが追い詰められた状況にあることに切迫感がなかったのでしょう。イエスはそこを見抜いて切実さを弟子たちに示したかったのです。

追い詰められた管理人の切迫的行動を読む

日常、わたしたちが「切迫感」「危機感」を感じる体験は、誰にでもあるのではないでしょうか。身内の者に何かが起こったとか、愛する人が心身に大きな傷を受けたとか、何にもまして、わが子に何かが起こり、被害者になってしまったとなると、普通に考えれば、平常心でおれなくなってしまいます。外部に見え、感じることができるようなしるしがあるとわかりやすいのですが、内的な、精神的な被害となると、ましてや、本人がそれと気づいていなければ、追い詰められた「自分」を自覚することすら難しくなります。

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福音書の弟子たちに戻りますと、彼らは、自分たちの「師」であるイエスが、十字架の刑を受けなければならないほどの緊迫した状況にあることに気づいていなかったのです。人間の中にあるエゴイズム、欲望が、自らをダメにしてしまうことが見えていないのです。それゆえに、彼らの救いを求める姿勢に、どこかしら真剣味、本気度を感じなかったのです。気づいていれば、救いのためにもっと切実な努力をしたのではないか、とイエスは感じていたのでしょう。

なりふりかまわず救いを求めていく姿勢は、自らの滅びへの「危機感」を感じている度合いによるものであることを、イエスは今のわたしたちにも教えたいのではないでしょうか。

この世の富は自分のために貯えるのではなく

「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」つまり、イエスが今のわたしたちに示したいことは、自分が危機に陥ったとき、「この世の富」「不正にまみれた富」の使い方を工夫しなさいということです。「不正にまみれた富」とは不正な手段を講じて蓄えた富というのではなく、単に「この世の富」のことです。この世の特徴は不正に満ちているともいえるので「不正にまみれた富」と呼ばれています。

とどのつまりは、イエスはこの世の富は自分のために貯めこむのではなく、友を作るため、人のために用いなさいということです。それが、自らにいい結果をもたらし、天に自らの宝を摘むことになります。

今の時代の選ばれた人たちは、自分のために貯めこむあまり、「この世の富」が、まったく「不正な富」になっているのでしょう。頭脳明晰な人々だけに、その能力とともに資産(お金)の用い方を「社会」のために工夫してほしいなとつくづく思います。

 

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