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年間第24主日:イエスは罪人の「わたし」と「一緒に」、いつも、どこまでも

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年間第24主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第24主日(C年)の説教=ルカ15・1~32

2022年9月11日

「人間は本質的に宗教的存在です」という言葉が、「カトリック教会の教え」(新要理書編纂特別委員会編集、2003年4月8日カトリック中央協議会発行)の中に記されています。そして、その説明が続きます。

人間は宗教的存在だが、しばしば無意識

「人の心は、この世のあれやこれやの関心だけでは満たされることがなく、それを超えるものに心が向かいます。この世の中に、愛、いのち、幸福を求めますが、それを通して、過ぎ去らない愛、死なないいのち、壊れることのない幸福をさらに希求します。真理や善を求め、偽りや悪を嫌ったり恥じたりするのも、同じ人間の性向です。こうしたことは、人間が持っているこの世のものを超える究極的関心であり、誰にも共通する宗教性です」と。

さらに続きます。「人間の宗教性は、しばしば無意識のものです」と。つまり、「たとえば人が思いがけない失敗や挫折に遭うとき、同時に痛みや苦しみのないいのちを求めています。このように考えると、人はつねに宗教的性向を持ち、それを生きている」のです。

現実的には、具体的な経験していることだけに意識が集中しているので、宗教的な思いを強く意識することはないのが普通です。それでも、意識が向かう時があるといいます。それは、自分の良心が問われるとき、勇気をもって人を助けるときなど、自分の人格が強くかかわるような場合です。そのような「時」の体験がおありですか。

ウミガメ保護成功の陰に漁業者の苦しみ

沖縄県の久米島で問題になっている「ウミガメ増加」に関する情報が、もっと具体的な対策も交えて掲載されています。(南日本新聞2022年9月5日朝刊)

ウミガメの保全に取り組んできた久米島町。瀕死の状態で発見されたウミガメ30匹以上は、地元の漁師に刺されたからだといいます。町に波紋が広がった一方で、増えすぎたウミガメが漁業に悪影響を及ぼすケースもあり、漁師への同情論もあります。環境省の絶滅危惧種に指定されているアオウミガメの保護に取り組む「久米島ウミガメ館」が2000年に開館し、観光資源としても活用してきた久米島町。

ウミガメの増加は観光客を喜ばせる一方、漁業の悩みの種にもなっています。なんといっても、成長したウミガメが漁網にからまると、高齢の漁師にとっては、網から外すのに一苦労なのです。そのために漁具を切っても、その補償がありません。補助を求める声が上がっているのです。

また、海の生態系にも深刻な影響を与えています。かつては海藻が茂っていた島沖合の海底に白っぽい岩や石が目立つようになったのです。ウミガメが食べつくしたのだそうです。そのせいで、魚やエビのすみかがなくなってしまったということでした。

「共存」は人間も自然界も永遠の課題か

そこで、日本ウミガメ協議会の平手康市副会長は保全を考える上で「保護だけでなく、どう個体数を管理するかの議論が必要になってきた」と指摘しています。そして、かつて広く食用に利用していたことに触れ「適切に利用することも生態系保全に重要だ」と話されています。

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人間と自然界の生き物との共存は、生きている限り永遠のテーマであり続けます。そして、体と五感を備えた動物でありながら、人間は考える能力において他の動物と区別されます。とはいえ、理性だけが独立しているわけではありません。すべての認識は感覚を出発点とする経験に始まります。そして、その認識に従って意志を働かせて決断し行動します。これが人間の特徴であるといえます。

イエスはなぜ3つのたとえ話をしたのか…

そうであるのに、今日の福音書の話には、経験を生かし、その認識に従って、まともに意志を働かせ切れていないファリサイ派と律法学士たちの貧しさ、悲しさが語られています。というより、敢えて誤った認識を抱くような彼らがいるのではないでしょうか。

そもそも、彼らの認識の中身は、民衆は「罪びとである」というものがありました。これでは、いかに素晴らしい出来事が目の前に展開されていても、それとして認識されるはずもないでしょう。しかも悪いことに、かれらは「不平を言う人」に成り下がっていたのです。徴税人や罪人の存在が目障りになってしょうがなかったのです。人が不平を言うときは、自分にとって当然と思える価値を真っ向から否定する現実に遭遇した時でしょう。イエスは彼らの思いの背後にあるこうした恐ろしい誤った考え方を正すべく、三つのたとえ話をされます。迷った子羊の話、銀貨を失ったご婦人の話、そして、放蕩息子の話です。

天の御父が共にいることを強調するため

それぞれに共通することは、天のおん父がともにいることです。それも、あわれみ深い神が強調されています。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」のです。ここでの悔い改めは、人間の努力を強調してはいません。捜しまわるのは羊でも銀貨でもなく、それらの「持ち主」です。ここでの「悔い改め」は、失ったものを捜しまわり、見つけ出す神に気づき、神の喜びに触れた者の反応だということができます。悔い改める前に神が捜しているのです。

その御父は”あわれみ深い”神である

イエスは神の「あわれみ」を前面に押し出します。ファリザイ派の人々は神の「聖」を強調します。ところが、神の「聖」と「あわれみ」とは相反するものではありません。矛盾する神の姿ではないのです。聖であるものが、やさしさを持たなければ、もはや聖とはいえないでしょう。聖であるということは、エゴイズムのない愛とあわれみを前提としています。それゆえに、イエスは罪びとを迎えてかれらと「一緒に」いる方なのです。この現実を受けて、わたしたちは、もはやファリサイ派のように、より劣ったものを引き合いに出して、自分の清さを誇示することなんてできません。では、どうしましょうか。

さらに今、ウミガメ問題の現実を突きつけられ、人として、どのように反応すればいいのでしょうか。

「人らしさ」が問われる時。どう判断し、決断して行動する、‥?!

 

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